サリーちゃんのパパはYOASOBIに憧れる
朝起きて、鏡に映る自分の姿を見て驚いた。
ショートヘアのため、寝癖は毎朝のことなのだが、それにしても爆発ぶりがものすごかった。
左を下にして眠るから左側の毛が少し逆立つことは多いのだが、左はそのままに、右側がまさかの総立ちだった。
ベリーショートから少し伸びて、髪全体にボリュームが出てきた頃合いだ。
短い毛がどれだけ立っても「はね」の延長に思えるが、中途半端に伸びてきた長さでの逆立ちはなかなかに見物だった。
ボブではこうはならない。
この長さ特有の現象なのだろう。
髪の毛が重力に逆らって天に向かって伸びるのを見ると、決まって「サリーちゃんのパパ…」と心の中で思う。
こんなことを言っても通じない世代が増えているのは自覚しているが、では今をときめく世代はを連想するのだろうか。
例えばYOASOBIの曲を聴いていて、「群青」の歌詞でいつもどきっとさせられる。
冒頭なのだが、『過ぎる日々にあくびが出る』のは構わない。
続きに『渋谷の街に朝が降る』の部分。
その先も『つまらない』とこぼしているのだけど、かつて夜明けの時分に渋谷で過ごしたとき、つまんなくなかったし、わくわくしたよ?と思ってしまうのだ。
私にとって街で夜明けを過ごすことは「特別」だったんだけど、世代が代わると「いつもの様に」と表現されてしまうくらい大したことじゃないんだなと思う。
私の当たり前は、当たり前でなくなるし、私の連想は、思い出されもしない過去のものになっていく。
鏡の前で頭髪を眺めながら、そんな世代の溝を考える。
今日は出掛ける予定もなく、化粧もせず、あちこち整えることもなく気ままに過ごすはずだったのだが、家族と話すとたまに頭上をちらりと見られて気恥ずかしい。
いつもなら「飾り毛」と言って笑っていられるのだけど、今日の爆発具合はかなりのもので、あまりにみっともなく、身だしなみの大切さを子どもに伝える観点からも、ちょっと手入れをすることにした。
まぁ、髪を濡らしてドライヤーで乾かして整えるだけだから、大したことではないのだけど。
この大したことのないことをやる、という丁寧な暮らしというのが私には難しくて、どうもずぼらに過ごしてしまう。
街行く群青世代はきれいでかわいくてかっこういい。
きっと「大したこと」ではないんだろう。
未来を見て、自分を表現して、前へ前へと突き進む歌詞は、年を重ねた私にはとても輝いて聞こえる。
時間を巻き戻すことはできないけど、「違う」を感じて私ももっとわくわくしたい。
年齢が上がるにつれて、より欲張りになるのはなんでだろうか。
やりたいことはたくさんある。
まぁいいか。YOASOBIも「あとは楽しむだけだ」って言っているし。