余裕のない正義
午前中に業者が入る予定があって
朝から片付けをした。
日頃から整った生活をしていれば
慌てることもないのに、
当日朝になって急いでやるのは毎度のこと。
物を移動させ、床を拭く。
これを何度繰り返したことだろう。
手はすっかりぼろぼろになり、
対して玄関とリビングは
広く、きれいになった。
——人が来るってきれいになっていいな
なんて負け惜しみを言いながら
業者が来るのを待つ。
2時間程待ってようやく来たと思ったら
たった10分で用を済ませて帰っていった。
プロフェッショナルとはこういうことかと
素人丸出しの私は、今度は掃除を始める。
歩いた場所、
触れた場所、
目ざとくチェックしておいた箇所を
除菌していくのだ。
もともと潔癖症で磨くのは常だったが、
コロナウィルスの出現でひどくなった。
生きづらくはない。
ちょっと手間が多いだけだ。
あとは手が荒れること。
ようやく終わったのは13時を過ぎた頃だった。
朝早くに納豆ご飯を食べ、
間食の代わりに少し甘い
カフェラテを飲んだだけだったから
すごくお腹が空いている。
ようやく食べられると思ったら
午前授業だった子どもたちが帰ってきてしまい
話相手をし、口に詰め込みと、
ちっとも落ち着くことはできなかった。
いつもと違う出来事があったり
ストレス(今日でいえば他人が家に上がること)があると
必要以上に疲れてしまう。
落ち着けた時には余裕などなくなっていて
どっと疲れが体にのしかかっていた。
こうあるべきという正義は人それぞれだ。
押し付けてはいけない、
そう日頃心がけていても
余裕がない時には制御が効かなくなり
ついやらかしてしまいがちだ。
——勉強はだれのためにするのか
自分のためだと子どもに熱弁してしまう。
だらだらとやる気なく課題をやる姿に腹が立ち、
つい口に出してしまったが最後。
止まることなく言葉は飛び出して
ついにはひとりでやりなさいに行き着いてしまった。
子どもだって学校行って
夜遅くまで塾行って
大変なのも疲れているのもわかっている。
それでも課題に向かう姿勢は素晴らしいはずなのに
余裕がなく理想を追ってしまった。
子どもはひとりで課題をやっていた。
時には突き放すことも成長には必要だと
勝手な言い分を心の中で繰り返し、
声をかけずにぐっと我慢していたら
自分から報告にきた。
ここまでできたと誇らしげに言うのだが、
私はこれだけしかできていないと
素直に認められない自分がいる。
本人は達成感でいっぱいで
満足気な表情をしている。
あぁ、こっちこそが
本来のあるべき姿だよなと、
結果ばかりを見ていた私は
途端に罪悪感でいっぱいになった。
余裕がないと全くいいことがない。
今日は頑張って夕飯など作らずに
出来合いのもので済ませればよかった。
余裕をもって接してあげたかった。
後悔ばかりの中で自分の未熟さを痛感する。