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教育的外食

出掛けることにだいぶ抵抗感がなくなってきた。
コロナ禍での過ごし方に慣れ、気持ちも落ち着いてきたように思う。
コロナ禍が始まってから1年近くは、外へ出ることは悪いことに思えてならず、頑なに自宅に引きこもっていた。
外食もせず、外のトイレを使用することすら恐怖だった。
そんな生活に飽きたこともあるし、平日の午前中に出掛ければ混雑とは無縁なため、少しずつ外へ足が向きつつある。
感染に注意しつつも健全な心で過ごしたい。

子どもにも随分と我慢を強いてきた。
子ども自身も怖いから外へは出掛けたくないと言っていたため、家にこもって過ごすことは精神的な安定を与えてくれてはいたのだが。
久しぶりに連れ立って出掛けると、それは嬉しそうだった。
大きなショッピングセンターでは久々のお気に入りの店を満喫し、レジャー施設を存分に楽しみ、一緒にとんかつを美味しく食べた。
2年あれば子どもも成長している。
食べる量も増え、好みも子どもっぽさから少し脱したように思う。
しかし半日遊んで帰る頃には疲れでぐったりとしてしまい、体力の衰えが気になってしまった。
以前なら湧き出るようなパワーがあったのに。

久しぶりの外食では子どもがしゃべってくれなかった。
話しかけても素っ気ない返事しか返ってこない。
淋しい私はあれこれと話しかけるのだけど、一向に反応は変わらない。
つまらないのか、やはりまだコロナで緊張しているのかと気を揉んだのだが、どちらでもなくこれは学校教育によるものだと気が付いた。
給食の時間では、机の向きを変えてはいけなくて、全員前を向いて黙って食べなくてはいけないルールのようだ。
自宅で食事をする時はリラックスしているが、外食は学校ルールが適用されるらしく、だから話してくれなかったのだ。

ある程度成長した子どもと大人とで、決定的に違うのは経験の差だ。
私は大人だから、こういう時はこうなるだろうと経験から予測を立てて行動を決めることができる。
コロナ禍での過ごし方は未知であったため時間を要したが、2年も経過していれば力の抜き方がわかってくる。
でも大人は良しとすることが個人によって異なるため、私の判断と他人の判断が違うことは当然で、動きが同じになることはない。
私のように頑な人間も、逆に大らか過ぎる人間も出てきてしまう。
一方で子どもたちは外部から一律に「教育」されてくる。
自分の経験で良し悪しを判断するのではなく、これが正解と教えられて帰ってくるのだ。
子どもの徹底した態度に、教育の素晴らしさと窮屈さを感じた。
子どもからしたら、話しかけてくる私はルール違反のだらしのない大人に見えたのだろう。
しかし私からしたら、今は家族で食事をしているんだし、そこまでする必要はないんじゃないの?と柔軟さを求めてしまう。
やはりこれも経験が不足していることが一因になるのだろう。
ずっと引きこもっていたために外食経験が乏しくなってしまい、どうしたらいいのか判断がつかずに学校ルールを取り出したのだと思う。
生活も経験も1かゼロではだめなんだ。
人と楽しく過ごすためには出掛けることも必要だったと反省した食事だった。

外へ足が向いたことによる発見。
出掛けることで得たものがあった。

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