男性の消失

今月初旬に私も中の人の一である名古屋辨證法硏究會にて初の試みであるネットラジオ企畫が行はれた。その中での一議題としてトランスジェンダーがあつたのだが、TRAに就いての話が番組內で殆どできてゐなかつたやうに思はれるので、こゝに補足記事を上げておくことにする。

西側の正しさと云ふ前提に立てばTRAは全く正しい。これに就いては異論を挾む餘地はない。しかしながらシス男性と云ふ立場からこれを主張乃至啓蒙することを試みる場合、わだかまりを消すことが中々できない。それは何故か。

TRAを社會實裝する場合、トランス女性と女性になりすました男性を區別することは原理上できない。現在男性による女性に對する惡意の存在を疑ふ者はほゞをらず、ゆゑに女性スペースから男性を排除すると云ふ決定は廣く諒解されてゐる。TRAが實裝されれば男性が急にまともになると云ふことは通常ありえないので、女性になりすました男性による侵入を許すリスクを想定することは妥當である。從つて女性によるTRAの主張はトランス女性のためにこれらリスクを引受けると云ふことを含意するので、それは加害者的と云ふよりはむしろ獻身的である。一方で男性による場合はどうか。なんら當事者性のないことに關して、安全圈から自らの屬する性別が齎すリスクをその對象である他者にのみ引受けることを要求してゐると云ふ評價にならざるを得ない。トランス男性が男性スペースに入ることも許容されることを以てリスクの相殺とすることも到底できない。なぜなら性自認が男性である見た目が女性的なトランス男性がそのスペースに足を踏み入れた場合、通常想定されるのはシス男性によるトランス男性への暴行だからである。

先行するMeToo運動を發端とするフェミニズムの機運と結託することをシス男性であるところの我々は全く辭さないが、これはTRAとは事情が異なる。弱者男性は逆立ちしてもエスタブリッシュメント男性を倒すことはできないが、これらPCは彼らにも存在すると想定される性欲の逸脫を根據に彼らをキャンセルする道を開くからである。女性をモノとしか認識することが不可能である男性であるにもかかはらず自らもフェミニストであると云ふ錯誤にさへ陷らなければ、二段階革命的にこれは利用可能性がある。

重要なことは男性とそれ以外の對立のみが存在してをり、女性とトランス女性の對立が存在してゐるのではないと云ふことである。これは女性スペース問題と並んでよく俎上に載る書籍のタイトルが『トランスジェンダーになりたい少年たち』ではないことも示唆的であらう。以上の前提に立つことで初めてTRAの可能性を見ることができる。TRAが實裝された場合には、女性スペースに入つた者を問ふことはできない。從つてそこに足を踏み入れたものは總て女性として自動的に扱ふことになる。たとひどんなに男性に見えようともそれを男性だと指摘するシス女性が再敎育のために收容所に送られることは當然として、その對象が性自認が男性であるにも拘はらず女性を僭稱して侵入したと云ふ自己認識を持つ犯罪者だつたとしても、彼の意志とは無關係に强制的に女性として扱はれることを意味する。その瞬間確かにあらゆる男性は總て消滅し、女性のみが存在する女性の勝利が實現するが、それが何を意味するかに就いて我々は判斷することがまだできない。


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