極論と言論の自由

名古屋辨證法硏究會にて試みられたネットラジオはまさかの第2回があつたわけだが、相變らず終はつた後に言及できなかつた話があつたやうに思へてきたのでまたもや補足記事を上げることにする。かくも補足が續くとラジオにはつくづく向いてゐないとは思ふ。

「『情況』に關する聲明」は全く問題がない。書かれてゐる內容だけで判斷するとすれば差別問題について考へてきた場合にはごく一般的なことしか書かれてゐないし、それが抽象的すぎて何に對しても當嵌ると云つた批判があり得るとしても、形式としては匿名揭示板に於けるお氣持ち表明と大差はない以上問題にする必要がない。すなはち男性オタク向けと思はれたコンテンツが思ひのほか女性オタクにもウケたため、露出の多い美少女キャラクターよりもイケメンキャラクターの方が追加ペースが早くなつてきた(やうに思へる)男性オタクがこのままでは課金を控へざるを得ないと云つたよくある書込みと大差がないと云ふことである。このやうな言說は通常女性オタクの方が"推し"に對する金拂ひがいいから男性オタクが負けるのだと云つたやうに鼻で笑はれるだけで、これが運營に對する壓力であるなどと考へる者はゐない。こゝまではラジオでも言及したことである。

問題はこの聲明が既存のオープンレター的聲明に引きずられてさも言論の自由に對する挑戦であるかのやうな批判の仕方が右派の側から存在するやうに見えることである。オープンレター的聲明に對するイメージには、ある差別的な言及をした者がある組織に屬することでその組織自體の品格を問ふことが含まれるやうに思はれるが、組織に屬する=生活のための職であるとすれば、解職が卽生活の困難さに直結すると考へられることから、對象の言論が事實上制限されうると云ふ意味では廣義の言論彈壓と言へなくもない。
しかしながら「『情況』に關する聲明」はさう云ふ形式を取つてはゐない。これまで野球雜誌だと思つてゐたのに最近はサッカーの話ばかり載せることに野球ファンが昔のやうに野球の話を中心に載せてくれと言つてきたことに對して、サッカーの話を自由に載せられないから言論の自由に對する壓力だなどと思ふ編輯部がゐたら狂つてゐるとしか言ひやうがないやうに、左翼雜誌にもつと左翼的な記事構成にすることを要求することが壓力であるはずがない。これらクレームを受けて編輯部は情勢判斷として、クレームを入れてきた古くからの讀者の要望を聞入れ昔のやうな誌面に戾すか、彼らを切つて全く新しい顧客に向けた誌面構成にするかを選擇することになるのだらうが、これは單なる經營判斷にすぎない。
こゝで「『情況』に關する聲明」の方を言論の自由に對する挑戰と見做すことは、なんら問題がない內容のクレームを言ふ自由に對する抑壓になると言はざるを得ない。2chにあるやうなチラシ裏の書込みを守ることが言論の自由でないとすれば一體何が言論の自由なのか。ゆゑに「『情況』に關する聲明」は肯定される。

果たして本當にさうか。ノーディベートと云ふものは元來對抗言論を可視化させないことを主目的とする筈である。すなはち學術的に正しいとされる言說に挑んでくるなんら根據がないと見做される修正主義的言說の封殺である。大衆は後者を視界に入れた時、たとひその討論の場に於いてそのやうな珍說が劣勢であると通常判斷される場合でさへも、その主張に一時でも耳を傾けた結果思考を蝕まれると考へる。
言說を可視化させないことの意義は、反・反差別的な指向を持つ者も認めるところである。東の人間は部落なんて知らなかつたのに同和敎育で敎へられたせゐで差別の存在を知ることになり、變に意識することになつてしまつた。そんな敎育さへなければ差別はとつくに消えたのでは云々。

反差別の第一目的は虐殺の未然の阻止である。これがヘイトと云ふ槪念が他暴言と區別される所以である。從つて敵對者の言論を封じるレッテル貼りの道具として發明されたと云つた陰謀めいたものではないことはもちろん、當事者が言はれて傷つくからヘイトが禁止されるのでもない。ヘイトを聞いた大衆が當事者を虐殺してきたと云ふ歷史に基づくもので、その意味ではTRA側がトランス女性に對する緖問題を關東大震災に於ける朝鮮人の井戶の毒の話に繫げることは全くこじつけではない。
ゆゑに聲明がおそらく主敵としてゐるであらう佐藤悟志氏の論文はこの世に存在してはいけないのである。現に氏の論文は結びの部分で大衆のバックラッシュに怯えろとまさに恫喝してゐるが、これは虐殺の豫吿であると捉へるのが妥當である。反差別の文脈で云へば、である。
その意味で聲明は全く以て生ぬるいのではなからうか。ノーディベートが對抗言說をこの世に存在させないことから單に對話しないと云ふレベルへの退行、すなはち佐藤悟志氏の論文を載せるやうな雜誌のインタビューにかつて應じたことを恥ぢたり、同じ誌面に寄稿をすることを拒否したりするだけでは虐殺の阻止を眞劍に考へる場合には不十分なのではなからうか。要求すべきは焚書であるはずである。

これがスタ的だと云ふ批判もあり得るが、スタは元々トランスジェンダーなどと云ふものは資本主義的頽廢の現れであるとしてきた。それが今や人權擁護の對象とされるやうになつたのだから間違ひなく進步してゐる。スタはもつと己を誇るべきであらう。


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