日本の正義

2日に渡るAmerican Justiceを無事にやりきったので、こちらでは現場の樣子を中心に記錄を殘しておく。

現場の氣溫

20代の頃は40度の部屋に扇風機だけでずつと過ごしてゐたのもあつてか、やはり云ふほど暑さは感じなかつた。おそらく熱中症にもなつてゐない(と云ふよりも慢性的に朝起きたら頭痛やら吐き氣をランダムに引き起こすので假に熱中症になつてゐてもそれとの區別がつかない)。數時間同伴した人曰くかなり暑かつたとのことなので、體質もあるのかもしれない。
若い頃の生活環境の慢心から熱中症のことは完全に當初は想定に入れてゐなかつたのだが(ゆゑの眞夏のあの時間設定だつたわけである)、周圍から熱中症の警吿をかなり頂いたので、飲料を潤澤に持込み服裝の色もできるだけ熱吸收が少ないものになるやうに意識を回すことができた。その御蔭で倒れなかつた可能性も高い(普段のノリで黑中心で水分補給も適當だと普通にやられてゐたかもしれない)のでありがたい限りである。

トイレ問題

この企畫はその多くの時間眞夏の暑い中たゞボーつとしてゐるだけで、やる側としては特に面白みもないどころかどちらかと云へばたゞの苦行なのでそこまで强い動員をかけることもできず、現場の監視員不足がかなり深刻だつた。その中でも特に問題だつたのがトイレである。私個人は國際センターの正面入口から普通に入るとそれだけで建造物侵入と云ふことで起訴されてしまふ實績(8.3事件における公訴事實參照)があるので、わざわざ驛の公衆トイレまで行かなければならず、さうなると機材も全部移動させることになり、持つたまゝでは用は足しづらいし、床に置くのも衞生面で氣になる。かといつて我慢して給水を減らしてゐたら本末顚倒だし、といふことでかなりの不安材料だつた。もし我々が一般的な右派扱ひであればやけに馴れ馴れしい公安に荷物を任せてと云ふことも可能なのかもしれないがそんなことは當然なく、結果監視員がゐた時間にトイレをできるだけ濟ませる、と云ふ力技でなんとか凌ぐことができた。

警察

初日の午前中こそ入口の外を何人か張つてゐたが、以降はほゞ建物內に引つ込み1名が交代で外を監視、こちらが擴聲器を使用する時や、他團體と遭遇した時等に申しわけ程度に外に出てくる程度になつた。數年前まではどちからと云ふと右派擔當面した風貌の刑事が世間話的に聲をかけてくることもなくはなかつたのだが、今回は左派のデモの監視でよく見るやうな感じの警備と制服しかをらず、世間話をしに話かけてくることも一切なかつたので我々の扱ひは完全にそちら側になつたのかもしれない。
また、兩日共に終了時間の決死の突入を警戒したのか、19時近邊になるとどこからともなく警官が湧いて出てきて、建物內の警察の數は數倍に膨れ上がつてゐた。

沿道の反応

多くは氣づかず通り過ぎてゐたやうに思ふが、文字列の意味を認識したと思しきおそらくは日本人の通行人はこちらに對して何やらおぞましいものを見るかのやうな視線を向けてくることが多かつたやうに思ふ。しかしながらプラカードの文言はみなさんの同盟國である米國が思つてゐることの代辯なのだから、そのやうな視線をこちらに向けられてもお門違ひである。
會話が發生することも極稀にあり、その場合は分かりづらいなりにもこちらが右派であることがすぐに諒解された場合がほとんどであつた。一方で現場で遭遇した民族派團體は、聞くところによればこちらのことを親米左翼と見做してゐたやうである。

プラカード

今回のプラカードに載せる字には米國の同盟國"日本"を强調するために、普段なら塗るのが面倒だから簡化字を用ゐるところも敢て"日本"で一般的な字形を採用した。はずだつたのだが、9日の終了30分前に少しやり取りをした人から、「義」の字の缺角を指摘されることになつてしまつた。
ミスの詳細を說明するとすれば、畫像をよく見ればわかる通り缺角に見えるところは線畫としては存在してをり、要は一角づつ緣取りして塗つてゐつたせゐで、線畫が目立た亡くなつて塗るべき場所を見落としてしまつたと云ふことが考へられる。
デモのプラカードの漢字が一角缺けてゐることを以て漢字も知らない云々と揶揄される場面をネットでは見かけるが、さう云ふミスが屢起こるのはプラカードの作り方の影響ももしかしたらあるのかもしれない。
プラカードを作成してから20時間强展示してゐながらこの誤字に全く氣付けなかつたのは、敢て"日本"で一般的な字形を選び眞直ぐ米國の正義を訴へることを志した者としてはかなりの大きなミスであるが、もしかしたら最後のころで自我が溢れ出てしまつたと云ふことなのかもしれない。

現實

9日は長崎の平和式典へのイスラエル代表出席を巡る一連の騷動がとにかく注目された。我々の行動もこの動きとつなげて見られることもあるだらうから、少しそれについてもまとめておく。
長崎市がイスラエルを呼ばなかつたのは警備の都合と云ふのはおそらく本當だらう。さうでなければ今年初めて敢てスーダンが參加すると云ふことの說明がつかない。であるのであれば、米國大使の「イスラエルをロシヤと同等に扱ふと誤解させる」と云ふ主張にも一定程度は正當性がある。實際に左派リベラルは誤解して長崎市に連帶表明をしてゐる。
重要なのは自由主義陣營VS"權威"主義陣營と云ふ構圖の中で、日本は自由主義陣營に屬してゐると云ふことである。左派リベラルはこれに對抗するために、どちらがよりヒューマニズムかで競爭するしかなく、それゆゑ保守の矛盾を突く。シオニストとパレスチナ人の命の價値云々。しかしながら左派リベラルのその普遍的な價値の主張との矛盾として、「ソ聯の核は綺麗な核」に代表される陣營贔屓のダブルスタンダードを逆に突かれることになる。對抗言論としてより普遍的なヒューマニズムを說く以上、自由主義陣營へのこの具體的な抵抗施策に對する言ひわけを左派リベラルはすることができない。ゆゑに「誰も殺すな」と言ふしかなくなり、その結果先に殺したのはハマスの側だと云ふ"正論"に對してなす術がなくなる。
陣營贔屓のダブルスタンダードを保守から突かれても意に介す必要などない。なぜなら保守が今まさに同じことをやつてゐるからだ。保守は自由主義陣營の結束を臆面もなく主張する。米英イスラエルは自由主義陣營なのだから正しい、イスラエルの自衞權を認めない批判は中露イランを利する愚かな行爲である、と。これは彼らの世界線では全く以て正しい。この清々しいまでの開き直りを前に左派リベラルのダブルスタンダードがドス黑く映るのは必然である。重要なことは、我々の世界線ではそれは正しくない、ハマスの先制攻擊は正しく、シオニストは間違つてゐると振切ることである。その意味ではそれすら出來ずに綺麗事を並べてゐるだけの左派リベラルになぜ保守があそこまで自由主義陣營の結束を亂すとして警戒してゐるのかも大分理解不能である。
無論極右的に一番望ましいのは、日本自らが蹶起、すなはち「日獨伊の核は綺麗な核」と言ひ出すことなのだが、皇軍の重慶爆擊と云ふ鬼畜米英よりも先行した無差別市街地爆擊の"實績"に耐へられず、對米核攻擊を先に日本がやつた場合に買つたであらう恨みを避けられたのだから敗戰はむしろ良かつたのだなどと言つてしまへる國民性を鑑みれば、それは資本主義の終りを想像することよりも難しい。


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