第八話・再び母の問題Ⅱ
写真を探すのが大変なんで、絵画で。↑
この先生の動画はとても分かりやすくって、勉強になる。やっぱり、うちの親は2人とも発達障害かね?と思った動画。↓
アメリカに行ったはいいが、今度は夫の仕事がなかなか見つからない。やれやれ、一難去ってまた一難?笑 湾岸戦争で政府関係の雇用はストップしてしまって、履歴書を出して何か月もするのに、あちらから何にも言ってこない。3か月、4か月は、貯金を崩して暮らした。
夫に仕事がない、私は言語が出来ないので仕事がない。夫の両親は近くにいるけれど、仕事をくれる役職にない。さあ、大変。夫もしばらくは近所の人の手伝いバイトで何とかなっていた。
申込書を送ってから2年とちょっとで雇用という記録はたぶん、国務省で一番長いウエイティングなんじゃないの?って言われていて、夫の雇用までの道のりはとっても長かった。まあ、その間、夫は給料の安い自分の専門でない仕事、私はバイトと、少しの収入はあったのだけど。
まあ、ご想像通り、その間にも母がぶっ倒れることが何回かあり、金がない というので、私のバイト代全額をしばらく母に送っていた。その頃弟達は?って不思議に思うけど、上の弟も下の弟も我関せずだったので、仕方なく私が何とかしてあげていた。こっちもお金に困ってるんだけどなって思ったけれども、こんな母だから、しょうがない。
夫の仕事が変わり、ナイトシフトになったのを機に、私は日本に一時帰国する。その間夫が生家に帰って家賃をセーブする方法をとった。私は、辞めりゃあいいのに母のところに戻った。1992年だった。その頃母が何の仕事をしていたか、よく覚えていない。前の仕事を続けていた様に思う。
出稼ぎ帰国だったので、短期の仕事を探して単発で仕事をしていた。そろそろ不景気になって来てるところだったので、厳しいものがあったけど、仕事は見つけられた。その6か月間でいくら稼いだかは知らないが、帰りの飛行機代を払ったら、手元に残る金はほんのちょっとだった。帰国中に父にも会った。この話は後程。(長いw)
実家があって、上げ膳据え膳、何でもが無料の人が羨ましかった。笑 私がいた間、母の状態は安定していた。今にして思うに、やっぱり病気だったのかもしれない。一つ知らなかったのは、この手の病気は治るものと私は思っていたという事。人格障害系の病気は自然に治るもんじゃなく、治療しないと一生続くという事だった。
アメリカに帰国して、ワシントンDCへ夫が面接に行き、いよいよ国務省入省となったのが、1993年の3月だったと思う。面接のお知らせの電話を受け取ったのが、私で、夫は留守だった。
夫が帰って来て、その話をすると、夫は飛び上がって喜んだ。私は説明されてやっと、意味が分かった。笑 当時の私は、夫との会話はすべて日本語で話し、夫はすべて英語で話をし会話が成立していたので、私は、耳は英語に慣れているけど、自分で話せないという難癖があり、電話で言われたままを伝えたのだった。ああそうだったのそれは良かったという感じ。笑
そしていよいよ、安定した生活が始まる。でも、それはホッと一息だった。笑 私は、それまでに流産を2回していた。どうしても、2,3週間目くらいで流産してしまう。娘を妊娠した時は、今回は大丈夫そうと思っていた。そんな時、母から電話がかかって来る。
何?どうした?と聞くと、
私は、どうやら病気らしい。それも国が指定した特定疾患で、脊髄小脳変性症という病名らしい。でも安心して欲しい、私のは遺伝性ではないという事。という。
ああそうなんだ。で、どんな症状なの?と聞けば、上手く歩けないという。ああ、そういえば、お母さん真っ直ぐ歩けなかったもんね。と思い出した。
坂道を一緒に上ってる時に、母が左右に大きく蛇行する歩き方をするので、それを指摘したことがあったのだった。母曰く、昔、空手の試合中に脛を折ったことがあるからじゃないか?と言っていた、(母の父は空手道場をやっていたらしい)左右の足の長さが違うからと言っていた。私はそれで納得して、それ以上深堀して考えなかった。
が、あの時から、すでに病気だったのだねと、母と話をした。とりあえず、不幸中の幸いで、特定疾患なので、金銭的な問題は発生しそうもないから、心配はいらないという事だった。
心配も何も、私には子供が生まれるんだから、そんな暇ないよ!って笑った。そして娘が生まれた。娘が生後二か月で、海外赴任が決まり、ドイツに赴任することになった。
ホント、自分でも、めっちゃ忙しい人生だ。と思う。貧乏過ぎて、風俗店で働かなきゃならないとか、そういった苦労はなかったけど、私なりに、息継ぎするのが大変な、海で水泳 っぽい試練が沢山あった。海で長距離を泳いでるような状態っていうのが一番近いかな。たまに息継ぎすら苦しくって、それでも息継ぎしないと溺れちゃうしって、長い時間泳いでる感覚が、私の人生 のイメージに一番近いかも。考える余地なんかない、ゴール目指しての前進あるのみ。引き返しても溺れる、前進していくのが一番生存率が上がる。なんで、絶対にゴールしなければならない、もしくは死。みたいなイメージというかなんというか。
と言う訳で、私の人生には選択の余地があまりなかったように思う。まあ結果的に、心身ともに鍛えられ強くなったとは思う。いいんだか悪いんだかは、良く分からないけど。笑
受難はまだまだ続く。(続くんだよ!これが!)
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