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第九話・私の亡くなった弟

弟は、可愛かった。私の娘も、弟の小学生の頃の写真を見て、おい、隣の女子より可愛いやん!と私に言った。今でもよく覚えてるのだけど、小学校の運動会に、母が弟を連れてやってきた時、クラスメートの女子たちが、この子、弟さん?可愛い!と女子たちに大人気だった。私も、弟は可愛いと思っていた。正直、上の弟より可愛いと思っていた。(上の弟は神経質ですぐ泣いていた)

弟は生まれる時からして、難産で死にかけている。母が妊娠後期に美容院に行き、美容院の椅子に座ってる時、いつも、ちょろちょろとしている上の弟が椅子のレバーをいじり、椅子がガクンと下がった時に、その衝撃で胎盤が剥がれたらしく、救急で病院に行くも、母子ともに危険な状態で、父は、どちらかを取るならどちら?という選択を医者に告げなければならなかった。父は、子供たちの事を考え、母体を優先してくれと医者に行ったのだった。ここから、下の弟の過酷な人生が始まったのだった。

その日、病院の待合室のソファーで夜寝る前に、赤ちゃんが死んじゃうんだ。と、とっても暗い気持ちになったのを覚えてる。朝起きると、男の子のお子さんですよ!母子ともに安定してます!と看護婦さんの明るい声がした。医者の努力の甲斐あって、母子ともに命をセーブすることが出来たのだった。

父がその看護婦さんに、弟の生まれた時間を聞いていた。それが7時半くらいと看護婦が言ったのをなんとなく覚えてる。良かった!と私は思った。

後に母から、弟の出産時の事を聞けば、凄く大変だったと分かった。もちろん帝王切開で赤ん坊を取り出して、大量出、輸血とかなり大掛かりな出産だったようだ。私と同じ33歳の男児出産だった。息子を産んだ時、私は33歳で、男の子を33(女性の厄年)で産むことは厄落としになっていいと母が言っていたけど、私の場合は、超スピード出産で安産だった。

弟は、こんな風に死にそうになりながら生まれ、生後1年とちょっとくらいで、ソファーから落ちて右手首骨折。2歳で初めての交通事故に遭った。この時は、道の端っこを一人で歩いていた弟の足に、車のタイヤが乗っかったというだけの、火傷あとみたいなものだけで済んだ。弟には脱走癖があった。笑

弟が非常に賢い子供だと感心したエピソードも、脱走した時だった。父が車の整備をしに、ディーラーのところへ行ってくると家を出た後、父の後を追って、脱走を試みたのだった。母のちょっと見てない隙に居なくなり、またか!と慌てた母が、走って探し回り、道行く人に、どちらの方向へ行きましたか?と聞いて走り回った。その時弟は2歳か3歳。またしても脱走かと私も不安になった。

探し回って、何処にもいないと分かると、母が、父がいるディーラーに電話した。すると、ああ、○○(弟の名前)ならここにいるよ!と返事が返ってきた。私も母もびっくりした。だってね、車で10分くらいのところなのだよね、ディーラー。私は、父と何回か車に乗って、このディーラーに行った事はあったけど、道順まで覚えてられない。弟は覚えていらてるんだ!やっぱり、この子は頭がいいのだなって思ったのだった。今、よくよく考えると、彼ももしかしたら、ASDだったのかもしれない。年齢の割に、賢過ぎる記憶力は、疑う余地ありなのだ。これまた話が飛ぶので、あとで話すが、父の内縁の妻との間に生まれた子が先天的な自閉症だった。

こんな時、母に思うのだけど、いくら自分が田舎育ちだからって、幼児期の子供をちゃんと見てないと、こうなるに決まってるって思うのだよね。母は、こう言う、間が抜けたところがあり、弟が近所の犬に鼻をかじられ、血だらけになった時も、近所の人との話に夢中になっていて、弟の事をみていなかった。弟が泣いてる声がしたので、窓に行き、下を見ると、弟が血だらけになってるのを見つけたので、私が母に教えたのだった。その泣き方も普通じゃなかったから、私は慌てて窓から弟を探したのだった。その時、母に対しての、怒りと呆れが混ざった感情をよく覚えてる。しばし絶望的な気持ちになった。自分の子の泣き声に、あんなにも鈍感に慣れるものなんだ~って。

タオル持ってきて!と母に言われ、走ってタオルを取りに行き、母が弟の顔をタオルで抑えて止血し、救急車で病院に行った。可哀想な弟。顔に傷が残ると言われたらしい。ちなみに弟の日柱が辛亥。これもお手本通り?笑 私が四柱推命を知った時、どんだけ飛び上がったかお分かりいただけると思う。

その後もまだまだ続く。ライターをいたずらしてて、部屋干ししてた母の下着(補正下着)やカーテンに火が付いて、溶けた素材が顔に落ちて、顔を火傷したり。そして、極めは、中学の時に大事故に遭い、脳挫傷で生死を彷徨った。

本当に、度々死にかけて、舞い戻ってきたという感じ。9の命を持つ猫の様だった。こんなこともあり、突然亡くなるなら、上の弟の方だろうと思っていたから、夢に見たのだと思う。下の弟は何があっても死なないと私は思っていた。不安定な心の私は、悪夢を見ることが多かったのだけど、夢の中で亡くなったりするのは、いつも上の弟だった。だから、上の弟の方が心配だったくらい。

私と下の弟は、同じ学校に通ったことがない。なぜなら、ちょうど6年離れていて、私が中学にあがる時に弟が小学校へ入学だったから。なので、下の弟が学校でどのように過ごしていたかは、私は全く知らなかった。

そういえば、弟の学校の友達が家に来ることはなかったように思う。まあ私もそうだったけど、こんな家に友達を呼びたくないと思ったのかもしれない。私たち家族は、私が小学校5年生の時に市内の他区に引っ越しをしたので、当時2年生だった上の弟と、2人で越境通学をしていた。私が卒業すると同時に、下の弟が小学校へ入学することになるので、上の弟も引っ越した先の小学校へ下の弟と通学することになった。これは父のアイデアだった。

上の弟は転校先の小学校で虐めにあったと言っていた。でも、上の弟は比較的、キレ易い性格で、一度暴れてやったら、みんなが黙ったと言っていた。笑 (机をひっくり返したって言ってた)しかし、校長室に呼ばれ、問題児扱いされたと言っていた。笑 学校ってこういう所だよね。虐めた方の問題は、さほど問題にならない。教育者という名のもとに、一生懸命な人は何人いるのだろう?と思うことしばしば。下の弟はどうだったのだろう?私は知る余地もない。下の弟は基本大人しい性格だった。

私の中学は、バス通学だったが、途中から分校し、歩いていける距離になった。その頃は、弟と遊ぶこともなかったし、家の中はいつもどんよりしていたしで、自分の事で精いっぱいだった。机に向かって勉強してただけましだったと思う。私はグレるという感覚が良く分からなくって、ひたすら普通にまじめに勉強していたように思う。

埼玉に引っ越してすぐに私が中学を卒業し、上の弟が中学へ入学し、下の弟も中学に入学したころ、私は高校卒業という感じで、次から次へと、トコロテンが出てくるみたいな感じだった。

今でも、その日のことは良く覚えてるし、あの日さえなければ、弟はまだ生きてるかもしれないなってよく思う。私が就職し、仕事も慣れてきた時の事。回り道して帰ろうと、上野中央通りを歩いていたら、会社の人(男)に出会い、これから浅草に電気ブランを飲みに行くんだけど、一緒に行かない?と誘われたが、その日はどうしても、帰りたい気がしたので、また今度にしますって言ったんだけど、その人が凄く、しつこくって、手を引っ張ってきた。めんどくさい、この人と思ったので、じゃあ、少しだけ付き合いますと一緒に浅草まで行った。

飲む気のない酒だし、好きでもない会社の先輩。一人で歩きたかったから、回り道してたのに、こうなってしまって、頭の中は勘弁してくれ!早く帰りたいんだよ私は!だった。

ようやく、電車に乗れてホッとした。駅から家まで自転車で帰ったら、めったに話さない隣の家の奥さんが、弟さんが事故に遭って、今病院なのよ。この病院に居るからと言われ、父と連絡が取れないと言っていた。その頃は携帯電話もない時代。私も、父がどこにいるのかが分からない。気が動転して、どうやって病院に行ったか全く覚えていない。父がいつ病院に来たのか、親戚一同がどうやってここに集まってきたかも覚えてない。

医者が話をしに来て、弟の容体は非常に良くないと分かった。脳挫傷で今晩持つかどうかという状態だった。家に帰って葬式の準備をした方がいいかもしれないと言われ、言われるままに、帰って掃除をしたのを覚えてる。

やって来る時は、どんな状況でもやって来るのが死。でもどうして?それも、下の弟が?と思ったのだった。

続く

(このシリーズの読者っているのかなぁ?笑 って思いつつも、これは自分の記録なんで最後まで書こうかと思う、お付き合いくださりありがとう。)




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