第二十二話・新たなる試練/子育て
ドイツ赴任中に、息子を妊娠し出産したので、息子はドイツ生まれの日本人とアメリカ人のハーフ。もともと夫の先祖も、当時赴任地だったフランクフルトエリアから移民だった様で、夫にとっても、私にとっても、アメリカのどこのシティーより、フランクフルトが第二の故郷と言う感じだった。縁がある土地ってこういう事かと思った。
フランクフルトには、2回赴任していて、最初と最後がフランクフルトだった。今現在のフランクフルトの領事は、クロアチアに居たときに、夫が一緒に働いてた人である。随分出世したなぁって思う。フランクフルトのアメリカ領事館は規模としては大使館並みにデカい。
トップの写真はフランクフルトの宿舎から近い、ブンデスバンク(Bundesbank/ドイツ中央銀行)の裏にある公園で撮った写真。背景にあるビルディングがブンデスバンク。公園とは、柵一つで区切られてるけど、利口そうなジャーマンシェパードが警備してるのよね。実にドイツっぽい。笑 左側に見える柱のようなものが、私たちがタワーと呼んでいた、Europaturmと言う通信用のアンテナ塔。だからフランクフルト内で道に迷ったら、このタワーを目指して歩けって子供たちに言っていた。笑
出張ばかりだった夫が言っていたが、このアイコニックなタワーが、飛行機の中から見えると、ああ、家に帰って来た!とホッとする瞬間らしい。それくらい私たちにとって、アイコンなのだった。
このシリーズの読者の方はご存じだと思うが、この時期私は、ほとんど英語が話せない日本人だった。笑 私の人生では、勉強するチャンスがとても少ない人生な様で、勉強をしようと思うと必ず邪魔が入る人生だった。若い頃には、英会話教室なんかにも通っていたが、例の母の精神がヤバい時と重なったりで、全然身に入らなかった。
しかし、どこか変な自信だけはあって、英語なんか学びたいと真剣に思えばすぐ学べるから平気!ってタカをくくっている自分もいた。私は幼い時から何処か自分自身を信用してるところがあった。笑
そんなこんなで、海外で幼児2人の育児はワンオペ状態で、体力的にとても大変だった。運良く、アメリカ領事館という大きな組織内のコミュニティーと言うバックアップが充実していたので助かった。本当にラッキーだった。
子供達には、日本語を話してもらわないと、絶対に私が困ると思ったので、日本語教育は生まれたからすぐに始めた。つまり、すべて日本語で話しかけるのだ。先ほども言った様に、しっかりしたアメリカンコミュニティーのある、フランクフルトの領事館宿舎では、英語はナーサリーで学べるので、家では日本語で大丈夫だと思ったからだ。ってか、お母さん、英語できないからそれしかないのよって感じ?笑
そんな事より、夫が出張中の子供の病気の方が怖かった。アメリカ人のボスの奥さんに頼ったり、日本人のママ友、ドイツ人のママ友から助けてもらったり、手を尽くして情報を集め何とか乗り切った。
一度など、息子がロタウィルスに感染し脱水状態が酷く危なかったが、ドイツ人の友達の紹介してくれた小児科に行って、即入院と言われ、児童病院でちゃんとした治療を受けられた。運よく夫が居たので、娘も夫に任せて、私も息子に付き添えた。
こんな風に、海外で子育てって本当に大変で、言語の壁があったけど、英語版の乳幼児病気マニュアルを常に読んでいたのだった。おかげで、医療用語をよく覚えた。笑 人間何が幸いするか分からないよね。ドイツ人の医者と英語で話すのに役に立ったのだ。
体当たりで何でもやっていたので、他のお母さん方からみたら、マジで、髪の毛振り乱して・・・って見えたかもしれないけど、それしかできなかった。毎日サーベーションアーミーでかったTシャツにスエットパンツ姿で、一度など、妻の読み終わったファッション雑誌あげようか?とか言ってきた人がいて、すまんが、私、元アパレル と言いたいところをグッとこらえた。笑 忙しいんだ!放っておいてくれ!ww
どこの国家公務員もそうだろうけど、貰ってるお給料はスケスケに見える状態で、格差っていうのは常に肌で感じてた。例えば、ファッション雑誌の彼も、夫とはさほど格差はないものの、そういう事で差をつけようという感触がビンビン伝わって来るんだな。こんなコミュニティーのマイナス面も見てきた。今頃どれだけ出世してるんかな?って思うけどね。笑 あーこれが人間だ!笑
さて、バイリンガル教育だが、私の子供2人のバイリンガル教育は大成功だった。今でも、子供達とは全て日本語で会話できる。たまに楽しそうに日本語で会話してると、夫がヤキモチを焼くくらい。娘とはテクストも日本語。一生懸命教えて良かったと今では思う。と言うか、そうするべきだとも思うんだよね、最近。
ハーフの子がぶち当たる壁って、ぶっちゃけ、アイデンティティークライシスじゃないか?だったら、日本語と英語を両方理解したほうが、自分の立ち位置が理解できるはず。両親の国の文化を理解し、両国の国民として胸を張れる存在になるには、やっぱり言語は外せないじゃん?
早い時期から、私はここに気が付いてよかったと思ってる。これは自分の為だけじゃなく、子供の為にもなる選択だったと思ってる。
もう一つの選択。専業主婦。これは、働く星の沢山ある私にとって、家に居るのは本当に辛かった。けど、日本に赴任になった時に思ったのだ。初めて三ノ宮に買いものに行った時、そごうがあるんだ!と一瞬、仕事が出来るかも!と考えた。が、と同時に思った、夫に子供の世話は無理だろうと。
デパートに務めたことのある人なら誰でも理解できるだろうけど、就労時間の問題。当時息子はまだ5歳。キンダーガーテンの子供は、3時には家に居る。そして、職場がデパートなら、早くても、夜8時の帰宅になるだろう。その間、ストレスがマックスになると暴力的な夫が息子に何するか分からんので、やっぱり、やめた!となった。私は自分自身の経験もあってか、子供の心に傷がつくことが凄く嫌だった。
夫が悪いんじゃなく、夫の家族(家系)がめちゃくちゃクソなだけ。夫にすべての責任があるとは言い難いという事を言っておきたい。私が対処できる問題は私が対処し、来世で夫の家族に私の家来になってもらう としようと考えた。笑笑
と言う事で、上手く舵をとって、子供達にもちゃんといい教育を与えられたし、特に変な問題もなく子供達は立派な大人になった。しかし、思い出すだけでも大変だったなぁと、疲れて来るわ。ww
スニーカーマニアの息子が私の誕生日にと買ってくれた、スニーカー。スタン・スミス・80s。要するに復刻版の革製スタンスミス。こういう得もあるのだよね、一生懸命子育てすると。恩着せがましくして正解?笑 自立する精神が芽生える時期は、人それぞれ。息子はゆっくり目だと思うわ。