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第十四話・私の思春期

そんなこんなで、生まれ故郷の横浜を離れ、埼玉の東武伊勢崎線沿線のある駅にたどり着いたのはちょうどお昼頃だった。

引っ越しの当日、私は父に言われた通り、弟達を連れて、電車で新居に向かった。父は車に乗って引っ越し先の家に行くと言っていた。何故、私達だけ電車なのだろうと不思議だったのだけど。

父に逆らうと面倒なので、中三の私は弟たちを連れて、横浜線から乗り換えで菊名駅で電車を待っていた。そのことをよく覚えてる。なぜなら、めっちゃくちゃ、ファッションに拘って家を出たから。笑 駅に立つ自分自身の姿を妄想し選んだファッションだったから。笑 (中二病)

当時、中三の私は、ファッション雑誌に嵌っていて、MCシスターとノンノが好きだった。ノンノの特集で、軽井沢バケーション っぽいイメージの写真があって、電車に乗るだけなのに、わざわざ、籐製のスーツケースを買って、その中にお気に入りを詰めて電車に乗り込んだのだった。服はふんわりワンピースだった。笑

ここから、私の人生が変わる という気持ちがあったから、そういう風になったのだった。私の荷物は引っ越し屋が運んでくれたし、中目黒で日比谷線に乗り換えて、それから、北千住で東武伊勢崎線に乗り換えれば、その駅に着くのだから、2時間もかからない距離なのに、船出の様な出で立ちだった。笑 思春期だから故そうなったのだと思う。けど、当時の私にとっては、ちょっとしたケジメだったのだ。

駅に着いてすぐに、視界に入ってきた自転車の大群。自分の慣れ親しんだ、生まれ故郷横浜では見られない光景だった。埼玉県は自転車人口のその数が半端ない。なぜなら関東平野のど真ん中、丘がないのだ。横浜で自転車が普及しない理由は、丘だらけ、山だらけ、坂道だらけだからだろう。しかし埼玉は平たいのだ。延々に続く平地があり、そのほとんどは田んぼだった。いとこが住んでいた、流山(千葉)に似てるかもしれないと思った。

駅の改札を抜けたら、右に左に動く、自転車の大群が、初秋に大発生する、赤とんぼの大群に似てると思った。笑 なんじゃこりゃ?って笑ったのを覚えている。と同時に、嫌な予感がしてきた。笑 その予感は後に当たるのだけどね。

お昼時だったので、駅前のお蕎麦屋さんに入った。父に貰った食事代でお昼を食べることにした。入ったお蕎麦屋さんでは、テレビで高校野球の中継をしていた。高校野球とか、高校サッカーとか、スポ根ものに、興味のかけらもない私は、ああ、お母さんも今頃見てるだろうな~!くらいにしか思わなかった。母は野球中継を見るのが好きだった。母が中退した高校も野球部で有名な学校だったのだ。

駅前のタクシー乗り場で、運転手に住所を言って新居まで行ったのだと思う。よく覚えていないが、今考えても、その家に初めて行く人が歩いていくには複雑すぎるので、たぶんタクシーを使えと言われたんだと思う。

着いて、すぐに自分の部屋がある家が嬉しかった。そして借家じゃないのだ!けど、駅から随分遠いんだなって思った。そして、しばらくすると、新しいお母さんがやってきたのだった。美人だけど、母とは全く異なる美しさを持つその人に、何の感情も湧かなかった。知らないオバさんが家に居るという感覚だった。それは最初っから最後までそうだった。

そんな事より、中三の夏休み。受験準備をしなきゃいけない時期に、大丈夫なのか私?と思っていた。そのことを考えると、少しウツっぽくなった。なぜなら、横浜の中学でうけたアチーブメントテストの結果が思ってた以上悪く、悲惨な結果だったのだった。当時の神奈川県では、高校受験に、このテスト結果が利用され、これで受験校が決まると言われていた。

その頃には、通っていた小さな寺子屋の様な塾も辞めてたし、テスト準備は独学だった。自分たち中心な、父も母も、私の高校受験を気にするほど、私の事を心配する様子はなかったし、私は、そんなことを理由に自分の人生を台無しにしたくはなかったのだけど、結局、全く試験勉強に身が入らなかった。集中できなかったのだった。今考えれば、当然だと思うけど。

そんな風だったので、埼玉に行ってすぐに本屋で高校受験のガイドブックを買って、偏差値40、30台の高校ばかりを探していた。笑 アチーブメントテストの失敗による、自信喪失はかなりなものだった。笑

が、大都会横浜と埼玉の中都市では、学力の差があると知ったのだった。あの噂は本当なんだ!と自分でも驚いたほど。地域差なら、ここテキサスでも、サンアントニオはそれなりに大都市なんだけど、もっと大都会なヒューストンとは比べ物にならない。ヒューストンのサバーブの高校の出来る子と、子供たちの高校の出来る子の出来具合が違う。と息子が言っていた。日本でも学力の地域差と言うのはあるのだろう。

受験する高校は、この辺の公立高校で必ず入れるところって何処ですか?と、担任に聞いて選んだ。先生曰く、必ずって断言できないけど、君ならここは受かると思うと言われたのが私が卒業した学校だった。当時の偏差値は50くらいだったと思う。今現在は、60くらいらしい。卒業した高校名を人に言うと、いい学校ですね と言われたりするけど、当時は大したことのない学校だった。

オーストラリアに居たころ、同じ高校出身の方を、息子と娘の日本語の先生に紹介された。笑 でも、世代が違うんだよな~って思ったけど。笑 私が卒業したのちに外国語科が出来たらしいというのは聞いていた。それによって、学力がある子が集まったのかもしれない。

話は戻るが、埼玉の中学も、私がいた横浜の中学と全く違った感じで、慣れるのに必死だった。はじめに驚いたのは、中学に居る子供たちの違い。まず、男子は全員坊主頭だったのに驚いた。今時。。。って。笑

制服も、学校から新調する必要な無いと言われ、私は横浜の中学の制服で卒業した。私は、自由な校風の横浜の学校から転校してきたので、横浜の中学で、3年生ともなると、豚カバン を持つ子はいなかったので、カバンもそのまま横浜の中学で使っていた、薄く加工した学生カバンを学校に持って行ったら、皆の反応がこうだった。

「もしかしたら、横浜で裏バン(番長)やってたんじゃねーの?今日はスカートの丈短いけど、明日から、長くしてくるんじゃなねーの?」

↑これを後から友達に言われたときは大笑いした。そんなのするわけないじゃん!と笑い飛ばした。そう、田舎なんだよね。それに馴染めなかったのだった。笑 そんなつまらない事を考えながら中学生をやったことがなかったから。ある意味、そんな風にツッパレるここって平和なんだろうって、違いに戸惑った。

生徒もいろいろで、落ちこぼれの生徒を見てると辛くなったのを覚えてる。横浜の中学では、私が落ちこぼれだったからだろう。私よりも、もっと手の付けられない落ちこぼれな子供が存在することに驚いたのと同時に辛かった。どんな事情があったのか知らないけど、まあ、似たような事情だろうなと思っていたけど。けど、あそこまで学力が低くなってしまうのは大変だろうなって思っていた。小学校で学力がとまってる子供が何人もいた。

ワザワザ、学校でタバコやシンナーをやってる子もいて、本人たちは、カッコイイと思っているのだろうけど、なんておバカなんだろうと思っていた。学校で、大学生のボーイフレンドと、昨日した性行為を、動作を交えて話す女子とかもいて、本当に、トンデモナイ学校に転校してしまったと、彼らを見ていた。

言葉遣いも、酷いものだった。けど、私の横浜弁の、~じゃん。を、不良みたいだからそれ使わない方がいいよ!と指摘されたのだった。方言だっちゅうの!って思ったし。笑

転校先の子供達は、考えることも私とは違っていて、ぶっちゃけで言うと、あれかもしれないけど、よくこんな風に考えられるな ってずーっと思っていた。この時期、こんな風なら、この子たちの将来は本当にリミテッドだろうと、見ていて辛くなった。それこそ、街録chに、たまに出て来るような子になってしまう子もいそうだと思っていた。

勿論そんな子供達ばかりでなく、普通の子供達もいたけれども、あまりに、この不良系の子供たちが、楽しそうにバカやってたので、そっちの方が気になったのだった。普通の家庭の子達が、こんな子達をよくディール出来てるなって感心した。虐めはなかった。

本当に異次元なところだった。そんなアウェイな気持ちで思春期だったので、青春なんてそっくりそのままなかった気がする。ハジケたのは、横浜の母のもとに帰ってからだったしね。笑

素直に、先生のおススメしてくれた高校を受験して思ったのは、埼玉県の公立高校の入試が、基本的な事しか問われてなくって、え?こんなに簡単なテストなの?それでいいの?とびっくりしたこと。なんだこんなに簡単なテストなら、チャレンジ出来る学校の方が良かったのかも?と少し焦ったのだった。

またもや失敗か!と私は思ったのだった。その勘も見事に当たった。が、準備に時間がなかったのでしょうがないとも思った。諦めて3年間が辛かったのは確か。本当に辛かった。

自分に合わない学校に行くと、自分の本質が発揮できないことにイライラする。結局、家庭内でもいろいろありで高校の2学期から成績も落ちて来て、大学受験を諦め、専門学校にも経済的に無理だと父に言われ、高2の二学期の期末テストの前日に、イライラがマックスになって、学校で禁止されてる、ピアスの穴を布団針で、ブスっと開けたのだった。笑 私の思春期を物語るのに欠かせないこのピアスの話。あの時はとっても息苦しかった。Why me?と常に思って心は嘆いていた。

が、こんな私だったが、音楽に救われたのだった。

続く







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