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「たりないひとり」の明日

5月31日、18:30。
俺は部屋を締め切って、パソコンの画面を食い入るように見つめていた。

もうすぐ、尊敬してやまない2人のお笑い芸人による「明日のたりないふたり」というオンラインライブが開催されるからだ。

だが、単純に「楽しみ〜」という感情だけではいられなかった。
たりないふたりは、これを機に解散することを宣言していたから。
お二方の性格上、「嘘で〜〜〜すw」で前言撤回することは絶対にありえない。
だから、正真正銘、コレが本当に最後。
このライブで2人が12年かけて導き出した答えを漫才に落とし込み、舞台から颯爽とはけていくのだろう。

そしてきっと、その答えは、俺にはまだ分からない「前よりも"たりる"ことによって得た価値観」の中にあるんだと思っていた。

だから、ライブが始まる直前まで「置いてかないで」って思っていた。

だって俺はまだたりないから。

ずっと他人を、「自分より上か下か」で判断しない人になりたいって思ってた。
でもその思いとは裏腹に、俺は子供の頃からずっと、人に対して勝手に優越感を抱いたり、劣等感を抱いたりしてきた。

この人は、俺よりも頭が良くて。
この人は、俺よりかっこよくて。
この人は、俺より足が速くて。

小中学生ではこれくらいだったコンプレックスが、大人になるにつれて少しずつ複雑化していく。

この人は、俺より友達が多くて。
この人は、俺より女性経験が豊富で。
この人は、俺より集団での振る舞いが上手で。
この人は、俺より他人にに必要とされてて。
この人は、俺より自己肯定感が高くて。
この人は、俺より人生が楽しそうで。

自分と相手との1対1勝負の勝ち負けにおいてのみ抱いていたコンプレックスは、歳を重ねるにつれ、第三者とか集団における価値観が混ざることで、より一層多様な評価軸での劣等感を生み出した。

この劣等感を拭い去りたくて、俺は大学で様々ことに挑戦した。結果、コンプレックスの軽減とともに、人を「上か下か」で見る機会は減り、俺は大人になった気がしていた。

でも、それは気がしていただけだった。
依然として、俺は人を「上か下か」で見ている。

就活を経て、それを死ぬほど思い知らされた。

賭け事ばかりで大学に全然来てなかった友達が、自分よりもだいぶ先に、何の苦労もなく就活を終えていた。
ゼミ活動に全然協力してくれない同期が、ゼミをサボって行ったインターンの早期選考で大企業に内定していた。
俺だって頑張ったのに、何故アイツらが上手くいって、俺がこんなに苦しんだのか。何で内定先が最大手じゃないのか。
そんな負の感情を抱いてしまった。
自分で納得して就活を終え、内定を貰った時はあんなに嬉しかったはずなのに。

何より、自分の内定を心から喜んでくれた友人の内定先を聞いて、勝手に傷ついている自分に1番絶望した。素直に「おめでとう」が口に出なかった自分の矮小さが、どうしてもどうしても、許せなかった。

俺の下らないプライドとゴミみたいな劣等感は、一生消えないんだ。


この寂しい気づきと同時に、なぜ俺が大学生活において「上か下か」で見ることが少なくなったのかも分かった。
それは、俺が上だと勘違いしていたからだ。

高校までカーストの最底辺にいた自分が、
いい大学に入り、
いいサークルに巡り合い、
少ないながらも素敵な友人と交友関係を築けて、
最大のコンプレックスだった女性経験もある程度は積めた。

だから、誰かに対して何かしらで無自覚に優越感を持つことで、「上か下か」で見てしまう悪癖から解放された気でいただけだったのだ。

この悪癖はきっと一生なくならない。
そのことをはっきりと自覚した瞬間、社会に出ていくこれからの未来に、1ミリも希望が持てなくなった。


だから、「置いてかないで」なんていう考えになったんだと思う。

初めてたりなさを肯定してくれた2人が、たりてるって答えを出したら、まだたりてない俺の味方は誰もいなくなってしまう。
でも、2人の出した答えの足を引っ張るような人間になったら、それこそ人としてお終いだとも思った。
だから、受け入れるしかないんだって必死に自分に言い聞かせて、納得させようとしていた。

そんな複雑な気持ちを抱えたまま、画面越しのライブは幕を開けた。

肝心のライブの中身について触れられないのは本当にもどかしいが、おそらくこのnoteに辿り着いている人の殆どが公演を見ていると思うので、伝わると信じてこの先を書いていく。

このライブを見てから、俺は少しだけど、確実に生きやすくなった。
生まれてこの方ずっと苦しみ続けた様々な劣等感に対して、「たりないから仕方がない」って受け入れてもいいんだよって言われた気がして。
ある種の免罪符を与えられたような気になって。


勿論、5/31を経た後も、ナイーブですぐ傷つくのは以前と変わらない。

内定先での懇親会で必死に喋ってる自分を客観視して落ち込んだり、久々に連絡があった高校同期のLINEの返信で1日悩み続けたり、サークルの同期会参加への同調圧力に疲れたり。

でも、そんな時に「たりないから仕方がない」と魔法の言葉を唱えると、スッと心のモヤモヤが晴れるようになった。
前みたいに、いちいち深夜に散歩に出掛け、近くの川を見つめながら、小一時間ぼーっとしないと頭をリセットできない、なんてことがなくなった。

このままいけば、俺は自分のあらゆる「たりなさ」を肯定していける。
俺は最強の呪文を手にしたんだと思った。


でも、それは大きな勘違いだった。

この前、大切な友人との間に諍いが起きた。
その時、俺はあろうことか、社交性がたりないから、配慮がたりないから、理解力がたりないから、諍いが起こってもしょうがないと開き直ろうとした。無意識に「たりないから仕方がない」と関係性の破綻を受け入れそうになった。
そんな自分にゾッとした。

「たりないから仕方ない」で物事を片付けるのは、超簡単だ。
あまりにも万能すぎるこの言葉は、時に思考を放棄する言い訳にもなってしまう。

俺にとって物凄く貴重で大切な、相性の合う人を傷つけそうになり、やっと気づいた。
俺は「たりない」という言葉を免罪符に、自分にとって都合の悪い「たりなさ」から目を背けようとしていただけだ、ということに。

友人と無事に仲直りをしてから、改めて「たりない」という言葉について深く考え直した。

俺はすぐに劣等感を抱くし、一言余計だし、頑固だし、社交性もないし、扱いづらい人間だ。

だから、関わる全ての人に卒なく合わせられるような素敵な人間には、一生かけてもなれない。
でも、社会生活を送っていると、どうしても合わせなきゃいけない時がある。
そんな時には、頑固で折り合いがつけられない自分のたりなさを、あの魔法の言葉で、少しだけ肯定してあげようと思う。
それが唯一の「たりないから仕方ない」の使用方法だ。

逆に、こんな俺に合わせてくれる素敵な人々に対しては、たりない部分を埋め合わせる努力を一生怠ってはいけない。
所詮は違う人間だから、完璧に分かり合える瞬間は絶対に訪れない。
それを理解しながら、たりることを諦めないのは修羅の道だと分かっているけど、数少ない"合う人間"までも、自分のたりなさの殻で弾いてしまったら、本当に孤独になってしまう。
だから一生苦しみ続けるしかない。

そもそも、「たりない」という言葉は、言い訳のためにある言葉じゃない。

たりないものが多いのなら、たりるために何が必要なのかを必死に模索し続けなきゃいけない。
その努力が、簡単に満ち足りてしまうと結べなかった関係性や、発見に繋がるんだ。

はなから「たりない」という言葉に救われる前提で生きていくのはズルだ。
「たりない」という言葉は、自分の足りなさと徹底的に向き合ったその先にある、最後の希望でなくてはならない。


そのことを自覚したとき、あの2人の出した結論に、やっと少しだけ近づけた気がした。

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「明日のたりないふたり」のおかげで、たりなかったから見えなかった明日が、たりないからこそ見える希望の明日に変わった。

どうしようもない程、自分の「たりなさ」にもがき苦しんだ時にのみ唱えることができる、ふっかつのじゅもんを手に入れたから。

でも、「たりない」という言葉は劇薬で、時と場合を見極めて慎重に扱わなきゃいけない。
大切な人を傷つけて、それも身に染みて分かった。

俺が尊敬する彼らは、たりないことに一生向き合う覚悟を持ったからこそ、あんなにも凄まじいものを生み出した。

それに共感してしまったのなら、俺もその十字架を一生背負い続けるしかない。

その覚悟を持つこと。
それこそが、今はひとりでたりなさを抱える俺の、明日への向き合い方だと思った。

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