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軽やかに、でもあきらめない 島谷幸宏(熊本県立大学特別教授)12人のすてきな探究人インタビュー<第3回>
世界中で被害をもたらす洪水や土砂災害の根本にアプローチする『共創の流域治水』を推進する島谷さん。従来型の土木ではない、その土地に暮らす人との関係性の中で行う治水の方法には、住民や研究機関、企業、行政を「いつのまにか巻き込んでしまう」島谷さんの魅力が存分に発揮されています。そんな明るさとおおらかさはどこからくるのか。生い立ちや考え方に迫ります。
島谷幸宏(しまたにゆきひろ):河川工学の専門家として、流域全体での治水を目指す「共創の流域治水」を推進。住民参加の川づくりやグリーンインフラなどの、自然再生のための様々な取り組みを行う。熊本県立大学特別教授/大正大学客員教授/NPO法人水圏環境研究所理事長/九州オープンユニバーシティ理事。著書に『集落会議の記録』、『水辺空間の魅力と創造』(共著)、『河川風景デザイン』、『河川の自然環境の保全と復元』、『豊かな川をめざして』、『エコテクノロジーによる河川・湖沼の水質浄化』、『私たちの「いい川・いい川づくり」最前線』(共著)などがある。
現在の活動内容について教えてください
主に熊本の様々なプロジェクトに関わっています。熊本は球磨川を中心として、大洪水が何度も起きていますが、その治水のやり方を新しくすることを提唱して実践しています。
これまでは、洪水の対策と言えば、ダムをつくったり堤防を高くしたりというハードの対策が多かったんだけど、それをもっと地域の人と協力して、降った雨をそのエリアで吸収させる雨庭とか田んぼダムなんかを組み合わせた「共創の流域治水」を実践しながら研究してます。
土木の世界は「雨や雪で降った水を早く集めて流す」「コンクリートで固めて管理する」ということを過去100年ぐらいやってきたけど、その間に洪水は増えてるんだよね。同じ雨の量でも被覆されたエリアが多い都市と、地面などに水が浸透できる非都市では洪水の発生は2倍から3倍違う。僕は、人間の水の管理の仕方によって発生している洪水も多くなっているんじゃないかと思っています。
そして国交省の予測では、北海道や九州では4度上昇シナリオで洪水流量は1.4倍、洪水発生頻度は4倍に増えると言ってる。でも、自然の力は偉大で、自然にもっと頑張ってもらって、水を吸い込んでもらうようにしたい。そんな希望をもちながら、自分の寿命と戦いながらやってる感じ(笑)。
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洪水とうまく付き合ってきた日本
日本は稲作の国だけど、イネっていうのはね、氾濫原に育つんです。川が氾濫して土砂がきて、栄養が運ばれて、それで生育する。つまり氾濫が前提の植物だったんだよね。ふつうは、同じ作物を植え続けると「連作障害」といって、土中の成分バランスが崩れたり病害虫なんかが発生して生育しなくなるんだけど、イネについては、同じ場所で1000年も育ってるでしょう。これは水が土の表面を覆うことで病気の原因を抑えてくれるからなんです。
日本は稲作をやりながら、洪水と隣り合わせに水を分配して上手にコントロールしてきた。でも、これが明治時代からだんだん変わっちゃったんですね。
気づきのきっかけは?
若い時、役所(建設省)に入って、山梨県に出向したんだよね。
そしたら驚いちゃったの。川の幅がね、下流のほうが狭くなってて。
ーどういうことですか?
これは「川幅」設定する時の式が違うから発生する問題なんだけど、上流の砂防区間では洪水量に土砂の混入率を見込むから、土砂の混入を見ない中下流の河川区間の計算結果より大きくなることがあるんですね。同じ勾配ならば、流量から川幅や深さが決まります。
「ここまでが砂防です」「ここから河川です」といって、断面が違う、式が違う。こういうことが随所にあって整合が採れていない。それぞれでやっているうちはいいけど、改修工事を下流と上流それぞれから進めて出会っちゃうと「あれ?おかしくない?」となる。
明治維新から始まった行政と学問の「縦割り」
江戸時代までは、治水も、利水(注:水を活用すること)も、おんなじ大名、おんなじ地元の有力者とか地域の人たちでやってきたんだけど、明治維新から、役割に応じてそれが分業になっちゃった。
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(畔を嵩上げし、多雨時に田んぼで水を受け止める取り組み)
いま、農業用水は農水省の管轄で、河川管理は国交省でしょう?河川管理も一つじゃない。国交省の中でさらに分かれていて、上流は林野庁で、その下の流域は砂防で、さらに下流にくると河川局が担当してる。ぜんぶバラバラ。さらに日本で特徴的なのが、それぞれに対応する学問分野も同じく縦割りなところ。農業のところは「農業土木」、森林は「森林水文学(しんりんすいもんがく)」、砂防は「砂防工学」、河川は「河川工学」。ぜんぶ役所に対比するように学問分野ができてしまっている。だから、川幅を計測するっていっても、基礎の学問での定義が違っちゃうっていうことが起きるわけ。
水のマネジメントっていうのは全体でやらないといけないんだよね。そういうことに気づいたわけ。だから僕は、それらを総合して、新しい形で国土づくりをやりたいなぁと。その先駆けとして、球磨川で、産・学・官・民・金(金融)で流域治水を始めています。ほんとうに、いろんな人とプロジェクトをやれて幸せ(笑)
どんな子ども時代を?
小さいころは大変だったんですよ、うちは転勤族で。小学校を2校、中学校では4校経験しました。もう、対応するので一生懸命でね。小学校のときは昆虫つかまえて、四国の自然のなかで遊んで暮らしてた感じ。低学年は高知で、そのあと高松に引っ越して中1まで過ごした後、中学2でまた高知に引っ越して公立中学に転校したんだけどね。高知では、公立よりも私立がいいから受験しろって言われて土佐の私立中学校に編入して。そこで一学期だけ経験したら、今度は長崎に転校することになって。
高知の公立中のときはすごく成績がよかったのに、編入した私立では成績がビリになっちゃった。ビリですよ、ビリ。この時に悟ったんだよね。自分自身は何も変化がないのに、環境で成績が上になったり下になったりする。人の評価なんていうものは相対的で、こういうのに振り回されたらだめだなと思った。いくつも転校してたら、だんだんそういうのがわかってきて。
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だから、長崎の中学に転校したときに「この場所はいい!すごくいい場所!!ここの人はいい!みんないい人!!」って褒めるようにしたわけ。そういうといじめられない。地域の人とうまくやっていくのを身に着けたのはそんな感じ。実際、長崎はおおらかでね。みんな相撲ばっかりとって勉強しなくて。受験も近い高校に振り分けるから熾烈じゃないし。長崎で僕は初めて入学した学校(高校)を卒業したんだよね。
夢中になったことは?
あんまりないかなぁ。それぞれの場所で、地域とか、文化とか、違うというのを漠然と見ていた感じかな。環境になじむのが精いっぱいだったからね。おやじはひどくてね、「子供は順応性があるから~」とか言って(笑)。
ただ、僕は新しいことが好きで、人と同じことをやることにはあまり関心がなかったかな。父親が土木屋で、いろんな現場も見せてもらったから土木には興味がありましたね。ずっと土木をやりたくて、大学も土木工学科に進学して。でも、僕と同じぐらいの成績のひとはみんなお医者さんになったけど。
近いジャンルだけど、建築(建物を作る)は小さいからいやでね。父親が手掛けていたのは、船を作るドックとか、石油の備蓄基地とか、もう、敷地の際が見えないぐらい、とてつもなく現場が大きい。そういうのに憧れたんだよね。
ご両親から期待されたことなどはありましたか?
あんまり何もいわれたことはないなぁ。意外と好きなようにさせてもらいましたね。父親は、陸軍士官学校の出で、学生のときに戦争が終わった、そういう時代の人。昔のいわゆるナンバースクールの人だったから、哲学とかを勉強したインテリでね。ドイツ哲学が好きなようで「アウフヘーベン(注:Aufheben、ヘーゲルが弁証法の中で使った概念)」なんて言っていました。
僕に対しては、教養教育をしてたんだろうね。父の実家は料亭だったんだよね。文化的なことが好きでうちにはレコードとかいっぱいあって。それで、おやじは道路を汚すとめっちゃくちゃ怒った。そんなふうだったから、「土木っていうのは文化に携わるものだ」って、僕は信じて九州大学に行って土木に進んだら、全然違ってて衝撃(笑)。
土木に進んでみたら・・・
大学では構造力学の研究室に入ったんだけど、人間が考えた構造物について力学的に研究するのが、人間が考えた内側だと思えて性に合わなくて。だから卒業後は、建設省(当時)で道路じゃなくて河川に行ったんだよね。昔はね、建設の分野は道路か河川なの。都市は下水道っていうのもあるけど。建設省と運輸省が合体して国土交通省になってからは範囲が広くなったけどね、当時は道路か河川のどっちか。
それで、入省後に山梨県に出向したんだけど、河川のことはあんまりわからないから、わからないことがあると、先輩に聞いて「なぜなんですか?」って訊くんだけど、先輩は、それには答えてくれずに「これは武田信玄ときからやってるだー」とか答えるんだよね(笑)。それで、さっき言ったみたいに、中流域の砂防と下流の河川で幅が違ってることとかに出くわしたわけ。面白いよねぇ。
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南稜高校演習林にて
その後、建設省の土木研究所に入って河川(都市河川)を研究しました。1980年代に入ると、国土がどんどん都市化する中でそういう分野が必要になって、90年代になると、景観とか、自然環境が大事だといわれる時代に入った。だから1990年から2000年代には、河川分野の技術基準に環境を入れ込む仕事をしました。環境アセスメントのガイドラインなど軒並み作りましたね。
サイコーだった河川事務所の所長時代
そして国土交通省九州地方整備局の武雄河川事務所というところに行ったんだけど、これがもの凄く楽しかった。久しぶりに九州でね、事務所の所長だったの。もうね、三つの川を管理すればいいからすごい幸せ。古い文献を軒並み読んだりして、自分で考えて仕事ができるんだよね。決裁権もあるし。地方整備局直下の事務所で決裁権は局長だから、局長がだめといわなければなんでもできる。
この立場を楽しめない人もいるみたいだけど、僕にとってはサイコーだった。歴史に詳しい人を調べて話を聴きにいったり。そうすると「国土交通省の所長が来てくれた!」と喜んで話してくれる。そうやって調べたり聞いたりして回っているうちに、どんな地元のひとより地元の川のことが詳しくなって、そしたら、新聞に僕の連載がはじまったりして(笑)。
若い職員がね、訊きに来るの「所長をみていると川が好きにみえるけど、川が好きですか?」って。だから「お前、川は好きじゃないんか?」って聞いたら、川は仕事の対象として見ていただけだって言うんだよね。だから、総務課長を呼んで、投網、たも網(すくい網)と胴長(お腹の部分から繋がった長靴)を買ってくれと言って用意させてね。
それで、昔の部下と一緒にまず駐車場の広いところで投網の練習をするわけ。それからみんなで川で投網をやったんだよね。下流から漁協に案内してもらってね。僕が胴長をつけて川に入って、振り返るとだれもついてこない。みんな川の歩き方を知らないんだよね。でもそんなふうに投網をやったりしているうちに、みんな川が好きになった。「先週も行きました」ってね。
ワイワイやる、オープンにするとうまくいく
事務所の所長室には「みんな来ていいよ」と言ってあったから、市民なんかも含めてずいぶんといろんな人が来てね。どうも、僕の前任のときは事務所に訪ねて来ていい人といけない人、というのがあったらしいんだけど。
佐賀平野のクリーク(注:水不足に悩まされた佐賀平野の縦横無尽に走る独特な水路)の研究をやろう、ということになって、市民と一緒にマップ作りからしましょうと。「佐賀みずみちマップ」を作ろうということで、市役所のロビーに集まって、チームに分かれて、住宅地図をもって、水の経路とか水の色とかを調べるわけ。調べると、それらは有機的につながっていて「江戸時代にできた水路」はまるで神の手で作られているように隅々まで水を配っている。そういうのをやっていると近代科学っていったいなんなんだろうと思うようになって。
事務所に「地域と交流するというだけのポスト」を作って市民との交流窓口にした。彼らに「新聞がどうやってできているか勉強しろ」と新聞社に行かせてみたり(笑)。こういうことを始めたら、すごく地域のトラブルが減ったんだよね。マスコミとの関係もすごく円滑で、いろんなところの記者が代わる代わるやってくるわけ。河川事務所の所長っていうのは国会議員対応の仕事もあるから結構大変なんだけど、こうやって地元との関係がいいもんだから、国会議員の方からお礼を言われたりしました。
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雨どいから雨水管に流さずにその場に吸収させる取り組み
2030年までに2030か所の雨庭を目指して仲間を募っています
大学にはどういう経緯で?
地域に密着して人を育てることをしたいな、と思っていたところに九州大学から公募がでて大学の先生に転身しました。
そしてそれと近いタイミングで、推薦されて2014年に佐賀知事選挙に出馬しました。地方行政の長はちょっとやってみたかったのもあるし、事務所でずいぶんと、いろいろ実践できたから、知事になるともっといろいろなことができるのかなと。でも、選挙っていうのは難しいね。もしあのまま出馬せずに、素直に大学だけに勤めていたらおそらく政府の審議員とかになってた可能性もあるんだけど(笑)。
でもね、この経験はとても良かった。何かに困っているという人に、たくさん会ったから。それから、めっちゃプレゼンがうまくなった(笑)。妻から言われるんだよね、「選挙やってからプレゼンがうまくなって研究費が取れるようになった」って。選挙の時にはいろんな人が手伝ってくれてね。九州は災害がたくさんあったから、その増える災害の中で助け合っていける関係性がたくさんできた。小田さんたちとの出会いもそう。コミュニケーションが新たな研究に繋がっていくんだよね。
哲学・宗教の先生との研究
桑子敏雄(くわことしお)先生という哲学の先生とも一緒に研究しました。これがすごくよかった。ちょうど僕が九大に移った時、桑子先生から「人社プロジェクト(人文社会科学プロジェクト)」というのを一緒にやろうと誘われて。桑子先生の文系の研究に、僕みたいな工学系が入って欲しいんだと。哲学とか、文化人類学とか、宗教とかの先生と同じ場所でやる研究でね。高千穂やら、出雲やらの日本の水を巡って、アマテラスとか、スサノオとか、神話と国土形成の関係性について考えたり。
桑子先生とは、佐渡島でトキの研究もやった。トキという鳥は当時害鳥だったんだけど、そんななかで、絶滅しかかっている鳥を野生に復帰させ、地域に根付かせていく・・・・そこには環境宗教学の岡田真美子先生や文化人類学の合田博子先生もいて大変面白かった。僕たち工学者は何か考えたり伝えたりするときにデータが必要なんだけど、哲学の先生はな〜んにもなくてもいいの。あの人たちは何にもないところでできるんだよね(笑)。
小水力の研究
佐渡島のトキの研究がおわって、兵庫県立大学の岡田真美子先生と、地域資源を活用したI/Uターンの促進の研究をしました。地域の中のお寺なんかを回って、それぞれの役割を考えながら小水力発電を視野に入れた、地域の再エネと移住のつながりの研究。結果的に地域にいろいろ関われたんだけど、残念ながら小水力発電を作るところまでにいたらなかった。
でも、当時、私が小水力発電のデモンストレーションをやっている横を通学していた地元の小学生が昨年から僕の研究室に入ったんだよね。その彼がいま小水力発電をやろうしようとしている。彼が五ヶ瀬町に小水力発電(私が開発したJet水車を製作する)の会社を設立しUターンしたら僕の20年来の研究が完成するんだよ。蒔いた種が花開く。人を育て、いろんな形で影響を与え合って社会は変わる。この仕事は、そういう仕事なんだと、そういうのが、いま分かるんだ。
島谷先生がこだわっていることはありますか?
本質を忘れないように。そして、囚われないようにすることかな。囚われるときは、大体、失敗するときなんだよね。囚われなければ軽やかにいられる。失敗するときっていうのは、たいがい軽やかじゃないから。まー失敗というのはあきらめなければ失敗とはならないので、囚われずどこかのタイミングでリベンジすればいいから、失敗といいきるのは難しいけどね。
失敗したら、一つの場所に固着しない。でもあきらめない。長いスパンで研究して自己実現していくやりかたかな。普通の職業とはちがうんだけどね。
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「探究」という言葉に思うことは?
探究ってなんとなく難しい言葉だよね。僕は探究してるんかなぁ・・・。うーん、よく考えるし、最近考えて面白かったのは、雨庭で草がいっぱい生えて来た時に、みんなそれを雑草だと言うけど、それをどう資源化するかを思いついたとき。雑草を炭にしようと思ったわけ。草炭にね。それでやってみたらこれが面白くて、草炭と灰がまざってすごくいい感じの土壌改良剤になるわけ。ふかふか、もほもほで本当に心地いい。こうやってだれも思ってなかった本質的に大事なことに向かって価値を出す。みんな雑草が生えないようにって防草シートなんか敷くじゃない?あれだってプラスチック汚染の原因になるかもしれないでしょ?だったら雑草だとか言わないで草炭にしたらいいんだよね。こうやって、面白がって調べたり考えたりしてやってみる。
でもね、僕は0〜80までやるのがすき。それは「探検」で「探究」じゃないね。知的探検で。だから、80から先は、誰にやってもらうと発展して、面白くなるかなーと思って、マッチングしたり周りに居なかったらその人を見つけに行くんだよね。地域づくりは一人じゃできない。社会的イノベーションは一人でおこせない。僕は応援側にも回るんだ。だから究めちゃうとつまらない。究めるところは任せる。名前を付けるならイノベーションプロデューサーかな。
僕のやっているのは、「共創の流域治水」。流れてとどまり、いろんな場所でいろんな人とやらないといけない。森林、農地、暮らし、決して研究者や行政だけじゃできない。発見して連携しないとできない。学術的な解明もいるが、そういう連鎖がおきる仕掛けが大事。それをいつも模索している。お互いに触発されて、新しい連鎖が起きる。それがようやくできてきた。ほんと、楽しいね!
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