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高校大学にて独り学んだ学校概論

2022年5月某日。晴れ。11℃。


国公立大学と私立大学。この二項(校)対立について悩むまでには至らないけど、不思議に思っていたことと、今時点で辿り着いた結論について。


高校では、進学校に通っていた。自称進学校だけど。でも県内ではトップクラス。自称進学校だけど。でも僕は大学に進学した。自称進学校だから。

入るのが難しいとされていたが、そこに行くのは僕にとって当たり前だった。なんせ親父もお袋も祖父母も通っていたから。その学区内にたまたま生まれてそこで育った、だからその学校に行く。それくらいの感覚で、受験して合格して3年間通った。

その進学校では、「国公立に行く」よう教えられた。少なくともボクの記憶では、そう。ちょっと曖昧で大まかなイメージだけど、田舎の進学校には「国公立崇拝」みたいな何かがある気がする。分かってもらえるかなあ。

無事、国公立大学に進学した僕は、そこで早慶やMARCH、関関同立を知る。名前はもちろん知っていたけど、その存在感を肌で感じる。と同時に、高校時代の国公立至上主義への疑い、もはや否定に近い、そんな感情が芽生えることになる。地方国公立に進むより、大学のその先、目下は就職だが、を考えれば都内や都市圏にある私立大学の方がいいんじゃないか。学生時代ずっとそう思っていた。


ただ部活動や就職活動を通して、私立大学に通う子たちと交流する中で、うまく馴染めない、話がいまひとつ嚙み合わない、こんなことばかりだった。ボクの意思疎通能力の低さや多少の偏見、知識不足も一因だろうが。

世界が違う。階層が違う。「あの子は貴族」状態。

同じ生きてきた世界や住んでいる階層が違うというのは、当人だけではどう足掻いても解決できない問題のようだ。年老いて、そのとき生まれた孫か曾孫がようやく一つ上のステージで暮らせるようになるのではなかろうか。


高校の教師の教えは間違っていなかったのだ。「比較的貧しいところで生まれ育った田舎の子はせいぜい国公立がお似合いで、小学校や幼稚園から立派な私立学校に通う貴族の子とは合わないことが多い」というのは彼ら教師の実体験だったのかもしれない。



小中学校は、ソリやノリの合わない奴と仲良くできなくとも喧嘩せずに生きることを教わる場だった。しかし大学ともなれば、今後何年も付き合っていくであろう奴と出逢う場だ。学力的にも人間的にもちょうどいい、いい意味で身の丈に合った、背伸びをしないでいられる、そんな場としての学校を選ぶことができたと今では思う。

高校時代の先生方にはほんとうに頭が上がらない。感謝かんしゃ。

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