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なんでもいい。そんな訳ない。

2022年9月某日。晴れ。25℃。


「なんでもいい」と「どっちでもいい」

よくお袋に掛けていた言葉。
「知らない」と「分からない」もよく言ってたかも。

今日の晩ご飯何がいい?この服とその服どっちにする?赤にする青にする?右行く左行く?お昼何食べたい?山派海派?紅茶かコーヒーどっちがいい?テクセにするパワセにする?ナポリタンにするミートソースにする?
ほんとうにどっちでもよかった、何でもよかった、そんなことはない。たとえ51:49でも自分の意志や希望はあったはず。子供なんてそんなもんだ。

ほんとうに「どっちでもいい」って答えていいのは、東京から田端まで行かなきゃいけない時に、京浜東北線と山手線のどっちに乗るかって聞かれたときくらい。

でも「なんでもいい」「どっちでもいい」って平気で言っていた。自分の意思を表に出すのはなんか面倒くさって、わがままで、ちょっとダサい気がしていた。そして、相手に選ぶ権利を与えている気すらしていた、自分は懐のデカい善人だと酔いしれていた。

逆の立場になるまでは。何が食べたい?どこ行きたい?どれにする?って聞くような立場になると、「なんでもいい」「どっちでもいい」に強い暴力性を感じるようになった。

こっちはいろいろ考えて候補を出してるってのに。何が善人だ馬鹿野郎。候補の中から一つを選ぶなんて、全然労力いらないじゃん。君のためを思って、そこに行って君が楽しむのを想像して、君がそれを食べて喜ぶのを想像して、ワクワクしてるんだこっちは。それがなんだ。「なんでもいい」?「どっちでもいい」?それは苦しいよ。なんか無視されてる感じがする。こっちの努力が台無しじゃないか。ドキドキしたのがバカみたいじゃないか。



どっちがいい?って尋ねられた時の、「○○がいい」はワガママじゃない。それは愛。そして愛には愛で返さないと。

とびっきりの愛にはとびっきりの愛で返したいし、返して欲しい。
愛に気付いたときからずっと、そしてこれからもずっと。



どちらかと言うと古川琴音さん派です。かのこさんも可愛いと思います。

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