勉強が苦手な子がかわいい
勉強が苦手な子がかわいい。
本気でこう思っている人はどれくらいいるだろうか。
自分自身は、まだ心の底から思えていないかもしれない、と、正直なところ疑いもあります。しかし、若い頃よりも(今も若いのですが^^)確実に、今の方がかわいいと思えるようになりました。
今年度、新しい生徒、学級を受け持つことになり、当然ですが勉強が苦手な子もいます。そんな子たちと4月からどのように授業を創り、学級を創り、学年を、学校を創っていこうかと思っていたのですが、新型コロナの対応により、休校。ここまでほとんど授業をできていません。
勉強が苦手な子がいると、当たり前ですが教師の指導量は増えます。
配慮事項も増えます。
誰もが勉強を難なくできるようになるのであれば、教師の仕事は楽でしょう。勉強が苦手なことによって自尊心が低くなり、生徒指導上の問題も生じることを考えると、連鎖的に仕事量は激減するでしょう。
しかし、教師の仕事というのは、ある意味で勉強が苦手な子のためにあるといってもよいのです。
最も苦しい思いをしているのは、その子。
中には「勉強が苦手」「勉強ができない」ことでそんなに悩むなよ、人生において大切なことは他にもたーくさんあるんだ、と言う人もいるかもしれません。それはほとんど真実といっていいでしょう。
しかし、かつて少年院の院長を務め、現在特別支援・発達障害の子たちのために学校にアドバイザーとして支援に入っている小栗正幸先生は言います。
「学業不振は万病のもと」ならぬ「学業不振は学校不適応のもと」
なのです。
勉強ができない事を叱る先生がいます。直接言いはしませんが、僕はそういう先生を尊敬することはできません。
勉強ができないことによって、一番傷ついて、辛い思いをしているのはその子なのです。勉強が苦手な子は、毎日5時間、6時間、がんばってじっと耐えているのです。そんな中で、自分が内容を理解できない、できるようにならない一方で、周りの子たちは先生の言っていることを理解していく。自分よりも遥かに速いスピードでできるようになっていく。それを見ているだけで、自分自身に「お前はダメなやつだ」という言葉を向けてしまうのです。そんな状況で、自己肯定感を下げるなというのは無理な話でしょう。
「そうはいっても、やる気がなく、授業にも参加していないから勉強ができないのは当然」と言いたくなる先生もいらっしゃるかもしれません。確かにそういう風に見えます。が、その子の本心はどうでしょう。中学生になると、周りの評価を気にします。それは、どんなに突っ張っている生徒も同じです(というか周りを気にして突っ張っている子も多い)。『授業に参加して、勉強して、それでも学習内容がわからなかった。できるようにならなかった。』という状況は、自分の無能さを周りに示すことになります。授業に参加しない子の多くは、そうした状況を避けるために、「土俵にあがらない」という選択肢を選択しているのです。勝負しなければ、負けたことにはならない、という理屈です。必死の防衛策なのです。
そう考えたときに、その子のためにわれわれ教師ができることはなんでしょうか。
そうです。実にシンプルです。
「勉強をできるようにする(支援する)こと」
これが一番なのです。
これが教師の仕事の幹の部分です。
苦手な子はどうしたらできるようになるのかを考え、実践する
では、勉強が苦手な子はどうしたらできるようになるのでしょうか。
これは、まさに”教師の専門性”を凝縮して立ち向かうべき課題です。
僕が最も意識していることはこれです。
「手続き的(操作的)知識・技能を優先して身につけさせる」
ということです。
たとえば、です。
「箸を使う」という動作を言葉で説明できるでしょうか?
あるいは、あなたは、言葉での説明によって、相手を、箸を使えるレベルに到達させることはできるでしょうか?
ぼくにはまっっっっっったく自信がありません。
しかし、ぼくたちは箸を使えています。持ち方は微妙に違えど、日常生活には困らないレベルで使えていますよね。つまり、
言葉で説明できなくても、「できる」ことはたくさんあるということ
なのです。これが「手続き的(操作的)知識・技能」です。着替え、靴紐を結ぶ、などもそうですが、説明することができなくとも、実行できることはたくさんあるのです。
これを勉強でいうと。
①手続き的(操作的)知識(例.かけ算のひっ算ができる)
②意味的(概念的)知識(例.かけ算の意味を説明する、言語化するなど)
の2つがありまして。
②は全員が獲得できるとは限りません。特に、勉強が苦手な子、知的障害(境界知能)の子たちは、②がとーーーーーーっても苦手な子だと考えてよいです。
数学では顕著です。計算はできるけど、文章題は解けない。そういう子の中には、演算の意味を理解していないがために、文章題のような、場面設定のある状況で演算を選択できない子が一定数います。
勉強が苦手な子にとってまず大切なのは、①を確実に身に付けることなのです。
認知的には、①と②は区別しています。知的障害を持っている子も、①を優先的に獲得させるような指導がねらいとされることが多いです。
②は、①よりも高次の認知、獲得には高負荷がかかり、もちろんそこに達することができれば素晴らしいですが、いきなり全員にそれを求めようとすると、相当な無理がかかるのです。
「計算の意味を理解する」ことも大切だけど…
よく、「計算の意味を理解していれば、手順を覚えなくていい」や「公式の意味を理解すれば、毎回自分で導けるから覚える必要がない」という主張を目にします。
前述の②を難なくできる子にとっては、それでOKなこともあります。しかし、誰もがそこまで到達できると考えていると、苦しくなる子が確実にいます。
ここで少し考えてみてほしいのですが、
A.2桁×2桁の掛け算のひっ算ができる
B.掛け算の意味を理解している
は別ではないでしょうか。
Aを満たしていても、Bを満たしていない子はいます。
Bを満たしていても、Aを満たしていない子もいます。
Aは手続き的知識です。Bは意味的・概念的知識です。
全国学力調査には意味的・概念的知識を問う問題が多く出ます。もちろんそれも大切です。しかし、それよりもまず、手続き的知識をできるようにさせてあげることによって、救われる子がいるということを知っておいてほしいのです。
手続き的知識が全てではないが、それを盤石にすることで自信が持てる子がいる
勉強が苦手な子は、まず手続き的知識・技能を身に付ける。
「そんな形式処理だけできるようになったって…」と思うかもしれませんが、苦手な子にとって、計算だけでもできるようになれば、世界が全く変わってきます。計算ができることによって先生に丸をもらったり、認めてもらったりする機会も増えます。たったそれだけで人格が変わる子もいるのです。
自信を持つと人は変わります。脳も変化します。もしかしたら、自信を持つことで②意味的(概念的)知識まで到達できるようになるかもしれません。それだけ、「勉強ができるようになる」というのは、子どもに力を与えるのです。
教師は子どもの苦しさを共に味わい、克服する仕事
ここまでいろいろと書いてきましたが、僕自身、全てがうまくいっているというわけではなくて、日々試行錯誤です。色々な指導法に学び、人間の発達に関する知識も動員して、しかし目の前の子ができるようにならず、その子自身からも学びながら伴走していく。苦しいものです。笑 しかし、教師としての力量は、そうした泥臭い時間で形成されるのだと思います。