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令和という情報無価値時代。

 現在、インターネット上には、無限大ともいえる量の情報が転がっています。

 SNS上にも、最近ではYouTube上にも様々なコンテンツがあげられ、まさに「情報の群雄割拠時代」とも言えそうな様相です。

 今回は、こうした時代を生きていて、今僕が思うことを記録としてつらつらと書きます。

 最初に書いておきます。この記事を読んでも何の得にもなりません。読まない方が時間を有効活用できます。あなたの人生の時間を使ってまで読むものではないし、もっと有意義な時間の使い方はあるはずです。それでも読んでくださる方、どうぞしばらくお付き合いください。



意味のない情報をつかむ確率は”ほぼ100%”である。

 情報は今もインターネット上に溜まり続けています。情報が溜まり続けている要因はなにかというと、個人が情報発信をするようになったということです。今は、誰でも発信ができる時代なのです。発信用のプラットフォームはいくらでもあります。このnoteもそのうちの1つです。

 ここで大切なのは、

 情報量が無限に増大し続ける=情報濃度が無限に希釈され続ける

 ということです。

 情報が増えれば増えるほど、その中にある自分にとって意味のある情報に出会う可能性は低くなります。現在の時点で既に、適当にネットを開いて目に飛び込んでくる情報を手に取っていけば、”意味のない情報”をつかむ確率は”ほぼ100%”であるといってよいでしょう。

 「”意味のない”は言い過ぎではないか」という声が聞こえてきそうです。しかし、今のところ、インターネット上にあるほぼすべての情報は、教師である私たちにとって意味のない情報なのではないかと考えてしまうのです。

 正確に言うと、意味のないというよりは「必要がない情報」と言った方がいいかもしれません。

 インターネットの無い時代から、素晴らしい教師、素晴らしい実践は存在しています。インターネットの無い時代にそうした実践が生まれているということは、どういうことでしょうか。つまりは、インターネットによる情報取得は、実践を向上させる手段として「なくてもいいもの」だと考えられます。ネット上の情報は、実践向上の手段としての十分条件ではないし、必要条件にもならない、ということです。

 確かに「有益な情報があるかもしれない」という可能性はあります。0%ではありません。また、「インターネットを使って情報を得なければ見られない子どもの姿」があるかもしれません。それは可能性としては否定できません。しかし、「あるかもしれない」というのであれば、テレビにもその可能性はあります。ドラマやスポーツ中継、バラエティ番組やニュース番組の中にも「あるかもしれない」のです。では、そうした番組を、あなたは「有益な情報があるかもしれない」といって、観るでしょうか。観ないはずです。

 「有益な情報があるかもしれない可能性」のために自分の時間を使う、ということを一度考えてみましょう。「インターネットをしている時間」「テレビを観ている時間」というのは、「他の何かをしていない時間」です。インターネットやテレビに使う時間は、「本を読む」「実践をふり返る」「仲間と勉強会をする」という時間にもできるのです。

 そう考えると、「あるかもしれない可能性」のためにそこに時間を使うのはもったいない、と僕は考えてしまうのです。それよりも、確実に自分にとって有意義なことに時間を使いたいのです。


すでに情報に価値はない

 ネット上には、「スタバなう」などの超絶個人的な情報にはじまり、実践報告、職場の愚痴、ゲーム実況動画、勉強動画、情報商材などなど、様々な情報が溢れています。果たして、これらにどれだけの価値があるのか。

 そうです。どれほどの価値もないのです。

 「価値」というのは、需要と希少性(=供給)に依存します。ダイヤモンドが高価なのは、希少だからです。作物が不作の年に、その作物の値段が高騰するのも、希少だからです。他にも、他者にとって欲しいものか、という需要もありますが、需要があっても供給が足りているのであれば、価値は高まりません。供給量なんですね。

 ネット上には、HPだけでなく、ブログ、SNS、YouTube等誰もが簡単に情報を発信していて、誰でも簡単にそれらを得ることができます。Wikipediaも、情報の信頼度の問題点はありますが、知らないものを調べる際にはある程度活躍できるでしょう。

 かつて知識というものは、勤勉に学び、高等教育を受けた一部の人たちが有していて、それが希少性を持っていました。昔は、何か知りたいこと、わからないことがあったら、先生に質問したり、図書館に行ったりしなければならなかったのです。しかしそれが今は、スマホやPCで、指をちょっと動かすだけで手に入るものになりました。もともと文化的に”教師という職業”への敬意はあったのだとは思いますが、そこには教師が持つ”知識”の希少性が寄与していたことは確実でしょう。それが、誰もが知識を得ることができる時代になり、相対的に知識の価値が下落したのです。

 これと同様のことが情報にもいえます。もし、それなりに「意味のある情報」があったとして、それが無料なのであれば、どんな人でもそれを手に入れることができるのです。その情報の価値が低くなるのは当然です。

 情報は確かに大切ですが、インターネット上にある無限の情報によって、情報の価値も薄まっています。情報は、圧倒的供給過多状態なのです。そして、この供給過多は人類が滅びるまで続くわけです。

 実際に、一時期仕事に生かそうと思ってYouTubeのビジネス系の動画を観ていたことがあったのですが、みんなほとんど同じことを言っているんですね。どれがオリジナルかはわからないけども、みんな誰かの真似をしています。堀江さんや落合陽一さん、今でいうと鴨頭さんの真似をしている。真似をしていないとしても、大概はどこかのビジネス書から拾ってきたものです。つまりは、「書籍や雑誌、研究論文の焼き増し」がネット上の情報のほとんどなのです。しかも、その書籍の情報が歪められて発信されている場合があります。無料であるからこそ、気軽に真似ができますし、情報の真偽の検証もあいまいです。

 インターネット上には、様々な形式の情報がありますが、現時点では、書籍を買って読む方が圧倒的に時間を有効に使えると、僕は考えています。


有料の情報にも価値のない情報が山ほどある

 さて、では無料ではなく有料の情報はどうか、というところです。

 結論から言いますと、有料の情報でもガラクタが山ほどある!というところです。

 今、noteや話題のBrainをはじめとして、個人が自分でコンテンツを売りに出せる時代になりました。それらの中には、確かに無料とは一線を画す質の情報があります。僕も定期購読しているnoteがあります。しかし、例えば「○○で稼ぐ」「△△でうまくいく」といった情報商材は、ほとんど価値がありません。成功者の成功談、成功者の言っていることと、自分という人間が成功するための方法論は別ですし、何よりそうした情報商材は、情報を提供する側が儲けるための商材なのです。

 無料でそれなりの情報が手に入る時代。しかし、どの情報もそれぞれ似たり寄ったり。では、「どうやって差別化するか」というときに、「有料情報」というだけで、ある程度の差別化の要素となってしまうのです。(おそらくそろそろそうした時期は終わると思いますが…)

 現在の情報は、それっぽく書いてあるので、有料の情報だとしても、かなり精査しなければ情報に振り回されるだろうと思います。

 そんな中で、お金を出して本を読む、というのは、僕がおすすめする学び方の1つです。本と言うのは、一応出版社が看板を背負って出版しますから、まったくデタラメな情報は出せません。それ相応の情報の質が担保されているのです。


本を読む

 僕の中で今実感しているのは、「ビジネス書は古典以外を読んでも得るものは少ない」ということです。特に、自己啓発的な本も多い昨今ですが、それらはほとんど全て古典に帰着します。科学的な裏付けを付け加えて自己啓発している本もありますが、同じです。思うに、ここら辺をバッサリ切り捨てられれば、読書による質の高い情報を得る確率は高まるな、と思います。

 自己啓発というのは、人生を生きる上で大切にしたいことが書かれているわけですが、それらは時代を経ても普遍的であるということですね。したがって、長年読み継がれてきた、時代の荒波にも負けずに生き残っているものが最強なのです。『論語』『孫子』『原因と結果の法則』『人を動かす』など。松下幸之助先生の『道をひらく』もそうです。

 ビジネス書は古典で。その他、自分の専門となる分野の本は、片っ端から読み深めるつもりで読み漁り、たまに教養書(自分のフィールドからかけ離れているもの)を読む、という感じです。そうした積み重ねをどれだけ継続してできるか、ですね。この時に意外と大事なのは、読んで終わりではなく、それらを仕事に生かすことです。仕事に生かすためには、思考する時間が必要です。僕が思うに、本を読み進めるのと同じかそれ以上の時間を思考に使っていかないと、なかなか仕事に落とし込めないのではないか、ということですね。

 本を読んだ後の時間を大切にする、ということです。


何に価値があるのか

 さて、最後は「何に価値があるのか」です。大きく以下の2つがあります。

 ①受信機としての自分の視点・捉え方

 ②自分の生活というアナログ情報


 情報ばかりの現代。

 情報とは、ただの記号です。

 本にしてもそうです。本に書かれていることは、知識ではなく情報です。

 そして、その情報とやらは、誰もが手に入れることができる。

 もはや情報には価値がありません。

 しかし。

 その情報を「どう受信するか」は人によりけりです。

 つまり、記号としての情報は同じであっても、それを受信する”受信機”としての人間は異なる、ということです。

 そこに「価値」が生じます。

 同じ情報を受け取るにしても、解釈は人によって違う。

 その情報をどう判断するかも違うし、何を考えるかも違うし、どう行動するかも違います。

 これから重要度を増すのは、情報を受け取って「どう使うか」ということです。

 例えば、堀江貴文さんの本『多動力』を読んで、

 7割の人は読んで「ためになった」と言って終わります。

 2割の人は読んですぐに行動に移します。ありきたりです。

 しかし、残り1割の人は…また異なる行動を取るのです。


 情報を手に入れ、そのまま使っても、価値は生じないという現代です。

 情報を受け取り、何を為すか。どう生きるか。そこにフォーカスしたいものです。最終的には、情報を受け取って→アナログの世界でどう行動したか。そこにこそ「価値」が生じるのです。


 もう一つ。

     情報というと、自分の身体で体験している何気ない日常も情報です。しかも、他の誰とも異なる、生の情報です。ここに価値があります。

 現代の人々は、スマホによって常にネットワークに繋がれています。たとえ誰かと一緒にいても、スマホを見れば遠くの見知らぬ誰かの発信がSNSで入ってきます。

 多くの人は、自分の目の前で起こっていることを、一昔前よりも注視して見なくなっています。

 「アナログを見てるやつが勝つ」と鈴木寛氏は言いました。

 ITの技術の発達によって、ツールは多くなりましたが、人間の頭の中で起こっていることは、変わりません。自分の体験をしっかりと振り返り、捉え直し、次に繋げる。当たり前のことかもしれませんが、その当たり前が、今、できなくなってきているのです。当たり前の質が落ちてきたのです。

 これは以前に書いた記事↓にも繋がります。

 多くの人が、電脳の世界に意識を置くようになり、目の前で起こっていることに目を向けにくくなりました。

 そんな時代だからこそ、自分の目で見て、耳で聴いて、体験する、ということを大切にしていきたいものです。


 どんな時代になっても、人が身をもって体験したことは、その人にとっての宝物なのです。
 そして、その体験を経験にするために、毎日の自分の人生を振り返る「日記」を書くこと。僕は不勉強な人間で、日記を2016年からしか書いていません。しかし、少しずつ自分の人生を刻み付けたものが増えてきています。これが財産だなと、パラパラと日記をめくりながら思うわけです。

 「今、ここ」を大切にする。
 記憶と記録を刻み付ける。
 情報の洪水に押し流されて、自分のいる場所がわからなくならないように…

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