日記0821、手に持つスマホと本
【夏休み19日目】
今日は6時40分くらいに起きた。私、学習しました。切タイマーをセットする時間は起きたい時間の2時間前くらいが良いと。1時間前だとまだ冷房の余韻があって涼しいので余裕で寝られちゃう訳ですね。
今日は妹に連れ出してもらって高円寺に行った。詳しい記事はこっち↓
さっき色々書いたのでこっちであまり書くことはないんだけど、上の記事で書いてない話をするならやっぱりスマホと本について。
スマホ忘れて思ったのは、スマートフォン、マジで生命線。妹がいたから良かったけど、ひとりで出かけてたら文字通り何も出来なかったと思う。写真も、乗り換えも、ナビですら。例えば気になることがあってもすぐに調べられないし、メモも出来ない。ただ後者については鞄の中に紙のメモ帳と筆記用具を忍ばせておけば解決するんじゃないかとも考えた。美術館とかスマホを取り出すのが望ましくない場面においてはかえってそっちの方が良いし。ついでに待ち時間を潰すための小説も一冊は持っておくと便利。荷物になるけど持ち運ぶ利点はある。
逆にスマホを置いてきてよかったと思える点もあることにはある。まず、常に手にスマホを握っている状態から解放されるので、両手が使える。私はスマホをポケットに入れるのは落としてしまう気がして不安になるので常に手に持っているんだけど、何かする度にその都度持ち替える手間、動線が省ける。意外と大事。
そしてやっぱり、インターネットから解放されて目の前のことに集中できること。常にネットに接続した状態で、何かをしていてもどこかで通知やSNSの更新、連絡など別のことが気になるという状態をシャットアウトできる。これは良かったし、これからも意識的にやっていきたいと思う。
『本と鍵の季節』を買った時に、この作品がずっと気になっていた、読みたいと思っていたものであったがために、ここ数年殆どまともな読書体験がなくて(ブランクとも違うが)また本の世界に熱中することが出来るか、途中で読み飽きてしまうんじゃないか心配だった。けど、取り越し苦労だった。
会話文がスラスラ入ってきて読みやすい。流れるように読める。好みの問題かもしれない。米澤穂信の書く文章が好きなんだと改めて実感できたのが嬉しかった。好きだったはずの読書に対するハードルが上がってしまっていたことに若干の寂しさと後ろめたさ(誰に対する?)のようなものを感じていたんだけど、いつでも好きな時に読んでいいんだよと言ってくれた気がする。趣味:読書を名乗ることに対する申し訳なさがなくなった。
ところで『本と鍵の季節』最初の話だけ読んだけど、男子高校生同士の会話が軽快でスイスイ進むし、俗っぽい言い方するけど関係性オタク好きなやつじゃんってなった。米澤さん高校生男女はよく書くけど(古典部然り、小市民然り)、男男をメインに据えたものは珍しい?気がした(わかんないです)。毎度ながらどのメインキャラも達観しすぎていてお前のような高校生があるかと思うけど。でもこの人の描く、精神年齢高めながらちゃんと思春期真っ最中の子どもたちの青春模様が好き。男男感情といえば古典部シリーズの『クドリャフカの順番』で描写された里志から奉太郎への「期待」(することしかできないやるせなさ、無力さのようなもの)が切なくて大好きです。「データベースは、結論を出せないんだ」
今日は帰って元気だったら勉強しようと思ったけど、ちゃんと元気だけど小説の続き読みたいのでサボります。明日からちゃんとやります。