イブキちゃんの聖書入門 #11「三位一体とは?」
「私はどこへ行けるでしょう。あなた(神)の御霊(みたま)から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。」
(詩篇 139篇7節)
⭐︎皆さんはクリスチャンの祈りを実際に聞いたことはありますか?
基本的にクリスチャンの祈りは、自分の魂の親である父なる神に対する個人的な呼びかけであり、祈祷書やお経のようなものはなく、自分の言葉で祈るものなのですが、それでも聖書が教える一応の型はあります。
それは「天の父なる神様」という呼びかけから始まり、「イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします」で締めくくる、というものです。
この最初と最後の二つのフレーズさえも、その言い回しが個人によって微妙に違っていたり、バラエティに富んでいるのですが、重要なことは「全ての祈りは父なる神に捧げられるものである」ということ、そしてその祈りは、
「キリストのお名前によって、聖霊(せいれい)に導かれて届けられるものである」
ということです。
つまり、クリスチャンの祈りは、三位一体の神を前提に捧げられるものなのです。
(「聖霊」という単語を初めて目にした方もおられるかと思いますが、そのことについてもいずれ解説いたします)。
今ここで皆さんに知って頂きたいことは、聖書の神は三位一体の神であり、三位一体とは、
1:父なる神
2:子なる神(キリスト)
3:聖霊なる神
の3つの位格(ペルソナ:神としての存在)によって成り立っている、ということです。
「神は天地万物を造られた創造主である」とクリスチャンが語る時、それは「父なる神も、キリストも、聖霊も、創造主である」と語っているのです。
「神は、実体(サブスタンティア)において唯一の神でありつつ、父と子と聖霊という3つの位格(ペルソナ)において存在する」
というのが三位一体の神学的な定義です。
小難しい言葉が並んでいますが、創造主である神はこの被造世界の何物にも例えられないので(もし例えることが出来るならば、神は被造世界の範疇に収まってしまうことになり、それは神ではありません)、このような表現にしかならないのです。
それでも、もしそれを可能な限りわかりやすく説明しようとするのであれば、「A君はA君である。しかし同時にB君でもあり、C君でもある」とか、「ここに100%のオレンジジュースがある。しかし同時にこれは100%のぶどうジュースであり、また100%のりんごジュースである」というような、「1+1+1=1」のような人間の合理的理解を超えた説明にならざるを得なくなります。
※(時折、一部の人々が三位一体を「気体、液体、固体と変化するH2O」で説明しようとしたり、一人の男性を例にとって、「彼は妻にとっては夫であり、子供にとっては父であり、家の外では会社員である。これが三位一体である」と解説することもありますが、それは上記の理由により聖書的な三位一体の説明とはなりません)。
つまり、三位一体とは、被造物である人間の被造世界の常識を超えた概念であり、人間の作品ではない、ということです。
創造主である神ご自身から一方的に示されなければ、人間が知り得る概念ではない、ということなのです。
その神ご自身がご自身のことを私たち人間に示された啓示の書物こそが、聖書なのです。
(啓示とは「それまでわからなかったことが明らかにされる」という意味だと捉えてください)。
⭐︎さて、ここで一旦、三位一体についてこれ以上深く掘り下げる前に、この聖書の神の代表的なご性質、属性を簡単にご紹介したいと思います。
以下に記すこれらのことは、三位一体の神の全ての位格に等しく当てはまります。
またこれらのことを知ることによって、聖書の神とはどういうお方なのか、より具体的に理解ができるかと思います。
1:神は永遠である。
聖書の神は「始まり」を創られたお方です。
聖書の神に誕生もなければ、その終わりもありません。
因果律(原因と結果)の作者であり、神ご自身はその自らの作品に束縛も支配もされません。
相対の枠内にはおられない、絶対のお方なのです。
2:神は愛である。
私たち、創造主である神に反逆する罪人が、それでも今、この時、無事に生かされているのは全て、神が愛であるからです。
神は直ぐに滅ぼされても仕方のない罪人に、無償で生きる為に必要な酸素、太陽、雨、あらゆる良きものを与え続けておられます。
その神の愛の最大の現われが、イエス・キリストであり、キリストの福音です。
私たち人間は神の愛の対象であり、親である神は、その子供である私たち一人一人の最善を願っておられます。
その最善とは、全ての人間がイエス・キリストを救い主と受け入れ、一人も滅ぶことなくご自身と共に永遠の世界で住まうことなのです。
3:神は義である。
神はご自身の存在にも、その行為にも、ご自身のご性質に反する要素を含むことはありません。
不正、不公平、不誠実といったことは神とは無関係です。
正義に忠実である故に、神は罪を罪のままで放置することは出来ず、罪人の罪を裁くのです。
例え今の世の中、一見、悪や不正が法的に裁かれずに蔓延っているように見えたとしても、神はいずれその全てを一切漏らさず、帳尻が合うように裁かれるのです。
「復讐するは我(神)にあり」とは元々は聖書からの引用であり、それは真実の言葉です。
4:神は聖である。
聖書における「聖」とは「日常的なもの、汚れたものからの分離(set apart from)」を意味しています。
「神は義である」が、神の罪に対する積極的な裁きの姿勢であるとするならば、この「神は聖である」とは、その罪や汚れに対する消極的な拒絶の状態を示しているとも言えます。
創造主である神と、その被造物との間には絶対的に乗り越えることができない「壁」があり、神は必然的に神以外のものからは分離されているのです。
5:神は全能である。
神はご自身のご性質に反することでない限り、どのようなことでも実行、実現が可能なお方です。
またそれ故に、そのご自身の愛と義のご性質に基づき、その無限の力をあえて制限することも可能なのです。
それが人間となって、しかも赤ん坊の姿となって、この世に来られた神、イエス・キリストとその福音に現わされているのです。
6:神は全知である。
神にとって「新しい発見」はありません。
神は、過去、現在、未来の全て一切を既に知っておられます。
私たちの心の中も、私たち自身が気付いていない事柄や心の中のつぶやきすらも、ことごとく知っておられます。
私たち以上に、私たちのことを知っておられるのです。
これは神を信じ、神に信頼している人にとっては慰めでありグッドニュースですが、逆に神を受け入れず、自分の創造主などいないかのように生きている人にとってはバッドニュースです。
7:神は遍在(へんざい)の神である。
遍在する、とは「いかなる場所にも、常に存在する」という意味です。
これは、神の諸要素が宇宙に分散している、という意味ではありません。
宇宙にある全ての法則の造り主である神は、この宇宙上のいかなる現象(空間、時間も含む)の干渉も受けずに、全宇宙全ての領域に、量子レベルに至るまで、隅々にまで権威と支配権を持ち、同時に存在する、という意味なのです。
福音を受け入れ、ボーンアゲインしたクリスチャンの内側には聖霊なる神が住まう、とされています。イエス・キリストを救い主として信じるならば、全ての人にそれは起こるのです。
それは聖書の神が遍在の神であるからこそ、可能となることなのです。
⭐︎これらは以上のことは、啓示の書である聖書を通して、私たち人間がわかる範囲のことであり、これら全てのことが神の全てではありません。
というのは、これらの要素を足し合わせても、それで神とはならないからです。
被造物である有限の私たち人間が、創造主である無限の神の総計を推し量ることは不可能です。
そういう訳で、私たちが三位一体を聖書が啓示する以上に捉えることは出来ません。
そもそも三位一体とは「理解するもの」ではなく、「信じるもの」なのです。
そのことを踏まえて、次回からは三位一体の神のそれぞれの位格(ペルソナ)についての学びを深めて行きたいと思います。