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イブキちゃんの聖書入門#53 「自分を偽る私たち」

"主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」"
サムエル記 第一 16章7節

★「自分」はどこに

⭐︎「日本人に宗教はありますか?」

もし、そのような質問が来たならば、恐らく多くの日本人は「いや、日本には特定の宗教は根付いてないし、基本的に、みんな無宗教だよ」というように答えるのではないでしょうか。

しかし、ある人は言いました。

「日本人には確実に宗教がある。それは『他人の目を気にする宗教』だ」
と。

⭐︎鎖国以来、日本人の内側には、どうも「群れてナンボ」とでも言うべき精神性が根付いてしまっているように思えます。

「隣の人と一緒の鍬を持っていればとりあえず安心」という精神性であり、逆に「集団から外れた出る杭になること(周囲と同調しないこと・出来ないこと)」に必要以上の恐怖を覚える、いわゆる島国根性のマインドセットです。

特に昨今では「空気を読むこと」が集団の中で重要視されており、そのようなコミュニケーション能力がないと自然と孤立して行ってしまうような、常に他人の目や顔色を気にし、「本音と建前」を上手に使い分けないと「はみ出し者」になってしまう文化的な構造が、日本社会の中に確実にあります。

終始、「他人(仲間)にどう思われるか」を慮り、集団の枠組み(平均値)からはみ出していないかどうか、神経をすり減らします。
殆ど条件反射的に、みんなが信じているものを自分が信じ、みんなが持っているものを自分も持とうとします。

集団からはみ出した「出る杭」になって打たれてしまうことへの恐怖が、日本人の中に遺伝子レベルであるようにすら思えてしまいます。
それはある意味、カルト宗教に見られるマインドコントールに似た種類の束縛であるように感じます。

結果として、多くの日本人は無意識的にも自分を偽り、自分が信じたいものを素直に信じることが出来ず、自分が本当に生きたい人生を歩むことが出来ず、常時、「自分ではない何者か」の仮面を被り続け、無自覚に莫大なストレスを内側に溜め込んでいるのではないでしょうか。

★裸の心で

⭐︎勿論、「本音と建前」の使い分けは、日本に限らず、どの時代、どの国においても、人間社会の中で生きて行く上ではある程度は必要です。

常に100%自分に正直に、自分の本心を他人にさらけ出していたら、まともな社会生活は営めなくなってしまいます。

多くの日本人にとっての問題は、そのこと(本音で生きること)への恐怖心を、カルト宗教的なまでにこじらせてしまっているとことにあります。

しかし、この聖書の神の前では、そのような「他人行儀の気遣い」は一切不要です。

いや、正確には「出来ない」のです。

何故なら、この聖書の神は全知全能であり、私たちの心の中を、私たち以上に知っておられるからです。

"主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」"
サムエル記 第一 16章7節

⭐︎この聖書箇所は旧約聖書に描かれているもので、サムエルという今から約3,000年前のイスラエルの預言者が、将来のイスラエルの王を任命する為に、神に導かれてベツレヘムという町に赴いた場面です。

ベツレヘムに到着したサムエルは、神が名指しして示された羊飼いの男、エッサイと出会い、彼の8人の息子たちの内の7人を紹介されます。

その長男であるエリアブを見た時、その背格好や容姿があまりにも立派だったので、サムエルは「彼こそが神が選ばれた次のイスラエルの王だ」と確信しました。

しかし、そのサムエルの確信は全く見当違いなものでした。

神が次のイスラエルの王に選ばれたのは、容姿端麗な長男でも、また他のエッサイの息子たちでもなく、エッサイがサムエルに紹介していなかった「8番目」の息子だったのです。

その招かれざる「8番目」の息子こそ、ダビデ像で有名なダビデであり、後にイスラエルの王となるばかりではなく、イエス・キリストの先祖ともなる少年であったのです。

「まだ年端も行かないから」とサムエルの前に連れて来られなかったダビデにのみ、神の視点から見れば、次期のイスラエルの王として、またキリストの先祖となるのに相応しい内面(心)を宿していた、ということでした。

⭐︎「人はうわべを見るが、主は心を見る」。

私たちはどうしても他者の「うわべ」しか見ることは出来ませんし、だからこそ、私たちは互いに仮面を被り、「本音と建前」を綿密に使い分けようとします。

それはある意味で、生きる上では仕方のないことだと言えます。

しかし、聖書の神の前でそのように自分を偽装する必要はありません。

聖書の神はあなたの造り主であり、あなたの親であり、あなたの全てを、あなたの人に言えない心の奥底にある闇の部分も、全ての罪をご存知なのです。

その上で、この神はあなたのその罪を全てご自身の身に負われました。

神ご自身である御子イエス・キリストが、あなたの罪の身代わりとして十字架につき、罪そのものとして処罰されたのです。

そしてそのあなたの為に、キリストは埋葬から3日目に復活し、死では終わらない本当の希望があることを証明して下さいました。

この神の前では、私たち全人類は、例え無神論者であったとしても、既にありのままの姿で置かれています。

それでも神は人の自由意志を尊重されるので、その神の前から隠れる選択肢を選ぶことは許されています。

しかし、神はあなたを今、神の前に進み出るように招いておられます。

神はあなたを愛しておられます。

この神の前では「裸の心」をさらけ出しても良いのです。

どうか今、あなたも「イエス・キリストの福音」を受け取り、心から信じて、この聖書の神によってもたらされる「本当の自由」を自分のものとしてみませんか。

心よりお勧め致します。


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