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イブキちゃんの聖書入門#19「個人的終末論② 地獄ってあるの?」

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"ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」"
ルカの福音書 16章19~31節


★スピリチュアルブームの闇

⭐︎私が聖書に出会う前、今から10年以上前のことですが、世の中はいわゆる「スピリチュアルブーム」で、「スピリチュアルカウンセラー」と呼ばれる人たちがテレビに出て、出演するタレントさんの前世やら守護霊やらを霊視(カウンセリング?)する、というような番組が幾つかありました。
そのような中で、確か「死んだ家族や友人と交信する」という企画も存在したかと思います。

明らかに視聴者の感動を狙ったものではあったと思うのですが、当時クリスチャンではなかった私ですらも、それらが平然とゴールデンタイムに放送している姿に、どこか薄気味悪いものを感じました。

明確な死生観を持たず、天国、地獄の存在、また死後の世界に対して普段はあまり考えることのない、「特定の宗教」に帰属することに拒絶反応を示す自称「無宗教者」が多い日本にあって、どうしてその手の番組が流行るのか、特に確固たる宗教観を持つことが自然である日本国外の人たちから見れば、やや不思議な感じがするかも知れません。

海外基準で見れば、「無宗教者」(無神論者)とは、基本的には全ての霊的な存在、超自然的な現象、死後の世界の存在を否定する人々だからです。

しかし、当時の私もそうでしたが、多くの日本人は、実際のところ「無宗教」でも「無神論」でもありません。

「日本人だから無宗教」というラベルを自分に貼っているだけであり(無宗教=先進的、という思い込みもある)、日本文化、風土に由来する宗教的営み(主に先祖礼拝や卜占)に対してはしっかりと信仰心、宗教心を持っているものです。
家に神棚や仏壇(英語では Buddhist altar 「仏教徒の祭壇」という意味)がある以上、少なくともある種の信仰心はあるでしょう。

しかし、それでも「特定の宗教団体」に入っていなければ、その人は「無宗教」を名乗るのです。
日本において、「宗教心・信仰心」とは、「特定の宗教団体」に所属している人たちが持っている、特殊なものである、という思い込みが強いのです。

⭐︎つまり、そのような都合の良いダブルスタンダードな宗教的特性によって、ニューエイジ思想の亜種のような「スピリチュアルもの」が、「宗教的ではない装い」をもって、当時の日本で受け入れられたのですが、しかし、「スピリチュアル」という横文字のお洒落な看板を掲げていても、実態は正真正銘の宗教であり、もっと言えば、古典的とも言えるオカルトです。

聖書的に見れば、それはかなり危険なものであると言わざるを得ません。

聖書は明確に、生者が死者と交流すること、死者の世界に踏み込むことを禁止しています。
それと同じ理由で、人が未来を覗き見ようとする行為、占いも禁止されています。

⭐︎という訳で、今回は「個人的終末論」の第2回目で、「地獄」の存在について更に深掘りして行こうと思っています。

(↓第1回目の記事)

と同時に、何故、どういう訳で、聖書はオカルトや占い、ニューエイジ思想(自分と宇宙は一体である、という東洋思想に基づく宗教観)が危険であると教えているのか、について触れたいと思っております。


★地獄(ハデス)の環境

"金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』"
ルカの福音書 16章24節

⭐︎肉体の死後にハデスに送られた金持ちは、耐え難い苦しみの中、ユダヤ人の先祖であるアブラハムに向かって声を上げます。
そのアブラハムのふところには、金持ちが生前に気にも留めていなかったホームレスのラザロが安らいでいます。

※ここでの「ハデス」とは「よみ(ヘブライ語でシオール:ギリシャ語でハデス)」の中にある「不信者が行く苦しみの場所」で、「ハデスの中のハデス(狭義としてのハデス)」と呼ばれたりしています。
一方で、ラザロは「よみ」の中の「アブラハムの懐」と呼ばれる「慰めの場所(パラダイス)」にいます。
旧約聖書の時代は、人は肉体的に死ぬと、神の啓示に反応しなかった者:不信者」も、「神の啓示に反応した者:信仰者」も、一旦は両者ともに「よみ」に送られますが、その「よみ」の中で、不信者は「苦しみの場所(ハデス)」に、信仰者は「慰めの場所(パラダイス)」へと分かれます。
そして旧約時代の終わり、死と復活を経たキリストが昇天する際に、この「パラダイス」の部分だけが「第3の天」へと引き上げられますが、その辺りのことは解説すると結構複雑になるので、次回以降に取り上げてみたいと思います。

⭐︎金持ちは肉体のない、霊の状態になっているにも関わらず、「炎で焼かれる苦しみ」を経験しています。 

ここからわかることは、恐らく霊の状態になっても人は無感覚になるのではなく、「霊的痛覚・身体感覚」を持ち続ける、と言うことです。
聖書の神は人の感覚すらも支配されるお方なので、「神がそのように霊の状態になった者が苦しむのを許されている」とも言えます。

また地獄(ハデス)の不信者に苦しみを与える「裁きの執行装置」は「炎」である、と言うこともわかります。
これはこの地上で私たちが目撃するような、やがて消火されてしまう炎とは違い、「決して消えることのない炎」です。
炎が不信者に裁きをもたらす、と言うこの記述は、イエス・キリストが語られる地獄の描写や、他の聖書箇所とも一致します。

"もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナ(最終的な地獄)に、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
"もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
"もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。"
マルコの福音書 9章43~48節

⭐︎聖書の中で「炎」が持つ象徴的な意味は、常に「裁きと清め」です。

信仰者(クリスチャン)も、最終的には神から「炎」を受けます。
しかしそれは、肉体が復活する(栄光の体へと変えられる)直前に起こる「キリストの御座の裁き」(千年王国での報償を決めるための審判)においてであり、キリストの炎によって不純物が取り除かれ清められる、とされています。
この場合の炎は「清めの炎」です。

対して、この金持ちのように、不信者が地獄で受ける炎は「裁きの炎」であり、徹頭徹尾、罪人に苦しみを与え続ける、苦しみによる苦しみのための炎です。

「裁きの炎」か、「清めの炎」か。

あなたはどちらの炎を受けたいですか?

「清めの炎」を選びたいのであれば、それは「イエス・キリストの福音」を信じる以外に道はありません。


★神が定める境界線(バウンダリー)

"するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』"
ルカの福音書 16章25~26節

⭐︎地獄(ハデス)の炎が「決して消えることのない炎」であるのように、地獄の刑期には終わりはありません。

多くの日本人が想像する「地獄」のイメージは、「刑務所に近いもの」なのかも知れません。
つまり、地獄はあったとしても、犯した罪の大きさの分だけ一時的に苦しむ場所、刑期を終えればいつか出られるのではないか、と。

しかし、聖書が描く地獄には「保釈」も「仮釈放」も「刑期満了による釈放」もありません。
「模範囚になれば早く釈放されるかも」と言う人間的な期待は一切抱けない場所であり、だからこそ、聖書が語る地獄は、神が本当に私たち愛する人間が行って欲しくないと懇願する「真の地獄」なのです。

一度、地獄に送られたら、もうその場所から「他の良い場所」に行けることはないのです。

⭐︎アブラハムが金持ちに語るように、「よみの世界」には決して渡れない大きな淵があります。

よって金持ちがアブラハムのところに行くことは出来なければ、偉大なアブラハムですら、金持ちがいるところに行くことは叶わないのです。

これは神が定められた宇宙の秩序の一つであり、ここで描写されている霊界(よみの世界)のみならず、神は全ての物事に境界線(バウンダリー)を設けられています。

※例えば、創造主と被造物、人間と動物、生物と無生物、男と女、親と子供、過去と未来、光と闇、天国と地獄、生者と死者…など。

神がそのような境界線を定められるのは、「偏狭で意地悪をしたいから」ではなく、神のご性質自体が、愛ときよさに満ちた秩序正しい方だからであり、むしろ、私たち人間が平和に、豊かに生きるためなのです。
自動車にガソリンではなくサラダ油を入れてしまったら壊れてしまうように、私たちも神が定められた秩序から外れれば、いずれ不幸や障害を被ってしまうように設計されているのです。

そういうことから、神は私たちのことを思って「人が神が定められた境界線を越えてしまうこと」を喜ばれません。
神が喜ばれないことは全て「罪」です。
聖書が語る「罪」とは、本質的にはそのように、「神が定められた境界線(バウンダリー)を侵犯すること」であると言えるのです。

⭐︎このことから、神が定めらえた境界線によって、生者と死者が互いに交信することは許されていない(聖書的ではない)、と言えます。
実際に、ここで描かれているように、生者は死者の世界に干渉はできないし、逆もまた然りです。
もしそれを人間の都合で無理矢理に越えようとすれば、それは「罪」となります。

恐らくここが、家に仏壇があり、仏教的な祭事を通して、ご先祖様、死者を悼むことが当たり前になっている(むしろ良いことだと思われている)多くの日本人にとって受け入れ難いことかも知れません。

もちろん、死者を悼むこと自体は、悪いことでも「罪」でもありません。
問題は、その悼む行為には必ず、偶像礼拝に関わる、聖書の神に反逆する信仰体系が背後にある、ということと、「死者と交信しようとする試み」(生者と死者の境界線を越えようとする思い)が潜んでいる、ということです。

イタコや口寄せ、降霊術など、明らかにオカルトだとわかるものであれば警戒するかも知れませんが、冒頭でお話ししたような占いやスピリチュアルなものを始めとする「マイルドなオカルト」は、ある時は遊びの中に、ある時は墓参りや祭事の中に、先祖を大切にしたいという日本人的心情を隠れ蓑に、何食わぬ顔をして紛れ込んでいることが実に多いのです。

★背後にあるもの

⭐︎繰り返しますが、いくら生きている者が死者と交信しよう、語りかけようとしても、実際として「よみの世界」には「大きな淵」があるので、それは叶いません。

それでも、もし「いや、私は死んだ○○さんと会ったよ、お話しできたよ」という体験があるのであれば、残念ながらそれは「○○さん」ではなく、ほぼ間違いなく、神の真実を歪めようとする悪霊(堕天使)の働きであると見て良いと思います。

悪霊(堕天使)は地獄と同様にリアルな存在であり、将来、地獄に送られることが確定されている存在であり、神に敵対することしか頭になく、非常に狡猾です。
それ故に、神が愛される人間に何とか罪を犯させ、暗闇の方向へと引っ張り込んで、一人でも多くの人間を地獄に道連れにしようとしているのです。

100歩譲って、そのような体験が悪霊の働きによるものではなかったとしても、それは思い込みによる催眠、幻覚や幻聴、白昼夢の類であると推測されます。
生者と死者が互いに交流を持つことは、聖書的に見て、有り得ないことなのです。

⭐︎以上のことが、オカルトや占い、ニューエイジ思想が危険であることの理由です。
まとめれば、それは「神が定めた境界線(バウンダリー)を越えようとする罪であるから」であり、また「背後に悪霊の働きがあるから」です。

…今回は情報量が多くなってしまいましたが、「地獄」について聖書的に解説しようとすれば、どうしても芋づる式に触れなければならないことが増えてしまうのです(汗)。
どうかご容赦下さい。

読者の皆様が、この世界の偽りに呑み込まれてしまうことがないように、お祈り致します。

次回は「聖書が教える『死者の場所』」について、また詳細に解説してみたいと思います。

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