イブキちゃんの聖書入門 #5「転嫁された罪」
「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がりました。」
(ローマ人への手紙 5章12節)
前回#4では「原罪」について説明しましたが、今回は「転嫁された罪」について考えてみたいと思います。
※(「原罪」と「転嫁された罪」は区別すべき概念です)。
上の聖書箇所にある「ちょうど一人の人」とは、先ほども紹介した最初の人間、アダムのことです。
アダムも、そして彼の妻として創造されたイヴも、創造された当初は罪がない状態であり、死とは無縁の状態でした。
聖書によれば、死とは罪の結果です。
肉体的にも、霊(神とコミュニケーションする目に見えない領域)的にも、創造された当初のアダムとイヴはずっと生き続ける存在でした。
(驚くべきことですが、死とは本来、神の創造の業からは生まれて来ない「不自然なもの」であると言えます。本来は、死は宇宙に存在すべきではないのです。神が罪の作者でないのであれば、当然そのような結論となります)。
しかしある時、イヴが悪魔に誘惑され、アダムが「神のルールを破る」という罪を犯したその瞬間、アダムと彼に続く全人類は「罪人」となりました。
これが「転嫁された罪」です。
前述の「原罪」(アダム以来、両親を介して継承されて来た罪の性質)とは違い、「転嫁された罪」とは、アダムから各個人に直接伝達される罪です。
私たち本人には身に覚えはなくても、私たちの先祖であるアダムが犯した罪、「神のルールを破る」というたった一点の罪が、その子孫である私たちが犯した罪として、一人一人に「転嫁」されてしまったのです。
私たち全人類は例外なしに、原罪による現在進行形の個人的な罪のためだけではなく、アダムの罪のためにも、生まれながらに有罪なのです。
私たちはこの「アダムが犯した罪」によって、霊的には神から切り離された死んだ状態となり、肉体的にも、時間が経過すれば死んでしまう存在となってしまいました。
そして霊的に死んだまま肉体の死を迎えるのならば、その行き先は、いわゆる「地獄」です。
つまり、永遠に神から切り離された世界、永遠に霊も肉体も消えない炎で燃やされ続ける世界、「永遠の死」と呼ばれる一切の希望のない世界へと行かざるを得ないのです。
しかしこれと全く同じ原理で、神の私たち一人一人に対する救いの業が行われています。
⭐︎それがイエス・キリストの福音です。
「罪のない神であるイエス・キリストが人となって、あなたの罪を負って十字架で死なれた。そして墓に葬られて後、3日目に死から復活した」
この良き知らせ(Good News)を信じることによって、私たち本人には身に覚えはなくても、イエス・キリストの「きよさ(罪のない状態)」が信じた者に転嫁され、神から「罪がない者」となされます。
私たちは罪人であることには変わりはありませんが、福音に対する信頼(信仰)を通して、神から「罪が赦された者」と宣言されるのです。
またその瞬間に、それまで死んでいた霊の領域が生き返ります。
罪が赦され、霊が生き返った状態であるのなら、肉体の死を迎えた後、永遠に神と共に過ごす平安の場所、いわゆる「天国」へと行くことができるのです。
聖書はこれを「恵み」と呼んでいます。
最初の人間であるアダムも、イエス・キリストも、共に原罪を宿さない状態で、超自然的にこの世に誕生しました。
しかしアダムは罪を全人類に持ち込みました。
一方でイエス・キリストは罪からの解放を私たちに提供しています。
この相関関係の故に、イエス・キリストは聖書の中において、「最後のアダム」と呼ばれています。
「最初の人」アダムが全人類に対して犯したことは「罪の転嫁」でしたが、「最後のアダム」キリストが全人類に対してなしてくださったことは「義(正しさ)の転嫁」です。
「義の転嫁」を受けた者はもはや「アダムに属する者」ではなく、「キリストに属する者」とされるのです。
あなたは「最初のアダム」に繋がったままでいたいですか?
それとも「最後のアダム」であるイエス・キリストに繋がりたいですか?