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イブキちゃんの聖書入門#74 「安らぎの詩篇(中後編)」

"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
詩篇 23篇1~6節

※前回(#73「安らぎの詩篇(中前編)」)の続きです。

☆中東の文化では指導者のことを「羊飼い」と喩えることはよくあることだとされています。

それでもダビデが自身の造り主である神を「私の羊飼い」と呼ぶ時、そこには彼が幼き日より築き上げて来た神との全人的な信頼、それに伴う平安、喜びが豊かに含蓄されているように思えます。

☆後半の4節から、ダビデの神への呼び掛けは「主(ヤハウェ)」יְהֹוָה)から「あなた(アター)」אַתָּה)に変化しています。

「主(ヤハウェ)」とは、ダビデを始めイスラエル民族の祖であるアブラハムに啓示された創造主である神の御名であり、更にダビデの時代のイスラエル人(モーセの時代以降のイスラエル人)にとって、「主(ヤハウェ)=唯一の創造主」である以上に、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」である、言い換えれば、「イスラエルの父祖たちと契約を結ばれた神」である、という意味合いが強くなっています。

そのことについてはいずれまた掘り下げるとして、つまり、「主(ヤハウェ)」とダビデが神を呼ぶ時、そこには「イスラエルの神:我々の神」というニュアンスがあり、「神の民」としての特別な(しかし聖書的で健全な)民族意識、選民意識、ナショナリズムという「イスラエル人ダビデ」の内面にあるものが発露されています。

日本文化は「個人よりも『お家』を大事にする」とよく言われますが、ダビデの「主(ヤハウェ)」との呼びかけは、特に詩篇など公で詠まれることを想定した文書においては、「個人的に」というよりも、「イスラエルの王として」という、イスラエル民族を代表した、「イスラエル」という群れの看板を背負ったものであるに違いありません。

☆それとは逆に「あなた(アター)」אַתָּה)は、英訳でも「you」であり、日常でも使われるごく一般的な二人称です。

そこには何の特別性はなく、格式の高さや緊張感はありません。

しかしダビデはあえて、その極めて日常的な二人間の関係で用いられる、親し気な「あなた」という呼びかけを、それまでとは一転して、この4、5節に採用しています。

"たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。"
詩篇 23篇4~5節

何故、このような変化が起こったのでしょうか。
ダビデの内面にどのような移り変わりがあったのでしょうか。

恐らく、一つには文学手法上の理由もそこにあったかと思います。

それ以前の節までは舞台は「緑の牧場(まきば)」でした。

神と自分との関係が「羊飼いと羊」というイメージでダイレクトに伝わる場面です。

しかし4節になると、それまでの光と緑できらめいていた場所から一気に、闇と死、孤独が支配するような荒涼とした場所(ユダの荒野)へと移されます。

その場面転換の落差を表現する為にも、またその場面が持つ非日常性を逆張りで表現する為にも、「あなた(アター)」אַתָּה)という二人称を選んだのではないかと推察します。

☆そして何よりも、それ以上に大きな理由として、そこにはダビデの神に対する立ち位置の変化、またその存在に対する実存感の変化があったからなのではないかと思います。

神を「主」と呼び、慕い仰いでいた前半部では、あくまで神はダビデの「羊飼い」であり、ダビデ自身はその「羊」です。

そこには明確な主従の関係があり、ダビデは偉大な主(マスター)である神に仕える従順なしもべに過ぎません。

しかしそこから場面が移った4節では、ダビデは「主の羊」であることには変わりませんが、羊の囲いから外に出て定められた目的地へと向かう「旅人」としての側面を見せています。

その旅路には、それまでの「緑の牧場」にはなかった険しい場所(死の陰の谷)がありますが、しかしだからと言って、神の導きの手から離れてしまった訳ではありません。

むしろ羊飼いである神の手、神の鞭、神の杖は片時も離れずにダビデの傍にあり、だからこそダビデは「緑の牧場」では体験し得なかった神のより深い愛と配慮、慰めを知ることが出来ています。

ここでの神は、「旅人:旅羊」となったダビデの随伴者であり、旅路を導く「友」なのです。

「縦」の位置にしか存在していなかった神が、「横」にも存在して下さる。

その感動を再確認し、ダビデは4節から神を「あなた(アター)」אַתָּה)と呼びかけ始めたのではないでしょうか。

☆このダビデが味わった「主である神が友となって下さる」という不思議、その驚くべき事実は、次の一気に場面が戦場へと転換する5節で、より具体的な形となって表現されます。

※次回「安らぎの詩篇(後前編)」へ続きます。

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