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イブキちゃんの聖書入門 #13「子なる神とは?」

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「神は人をご自身のかたちとして創造された。」
(創世記 1章27節)

★今回は三位一体の神の第二の位格(ペルソナ)である『子なる神(キリスト)』について語ってみたいと思います。

聖書はキリストについて非常に多くのスペースを使って語っており、その全てを1回でカバーすることは不可能なので、今回は三位一体の文脈の中で見えてくる「創造主としてのキリスト」に重点を置いてお話したいと思います。その他のキリストのご性質、その働きについてのことは、回を重ねるごとに順を追って明らかに行きますので、どうかこれからも末永くお付き合いください。

⭐︎ところで、皆さんは私たちの「人間存在」について、考えてみたことはありますか?

人間とは、よくよく鑑みてみれば不思議なものです。
経済活動をし、学問をし、歌を作り、物語を編み出し、他者を愛し、また憎しむ。

数学を研鑽して行った果てに、光の速度を観測し、月にまで行き、また人類全体を何十回をも滅ぼすことが出来る核兵器すらも開発したのです。
​「猿から進化した割には随分と大それたことをしてるもんだ」とある人々は言うかも知れません。

確かに、私たちが「猿のようなものから進化しただけ」であったのなら、それら目に見える人類の業績はまさに奇跡の産物と言えます。
それらは信じがたいほどに優れており、偉大であり、また常軌を逸して邪悪なのです。

知性が進化しただけでは説明ができない営みを、実際に人類は行って来ているのではないでしょうか。

人間と他の動物を決定的に分けるものとは一体何でしょう?

言葉を話すでしょうか?嘘がつけること?それとも二足歩行?道具が扱えることでしょうか?

それらも確かに「人間らしい」特徴ではありますが、それらが揃ったところで、人間を人間たらしめる訳ではないと思います。

人間ほど洗練されてはいませんが、小さなスケールでそれらと似たようなことを行う動物もいますし、またAI技術が進めば、それらの特徴を備えた人間そっくりのロボットもやがて登場するでしょう。

人間を人間として機能させている、人間性の根源となっているものとは果たして何なのでしょうか?

それは上記の聖書箇所に答えがあります。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。」

つまり人間は「神のかたち」として造られた、ということであり、それが他の動物と決定的に違うところだ、と聖書は語っているのです。

それは言い換えれば、「自らの造り主を認識すること」であり、もっと言えば「霊(神を認識する領域)が与えられていること」だと思います。

これはクリスチャンや、いわゆる一神教の宗教的な枠組みにいる人たちだけに当てはまることではありません。
仏教徒であろうが、無神論者であろうが、例えその知性は創造主なる神を否定しても、例えその霊が死んだような状態になっていたとしても、神を認識できる素養が備わっています。

例え今は造り主から離れていたとしても、そのまことの神の元へ帰還できる可能性を全ての人間は持っています。

何故なら、神は愛であり、全ての人間を罪による永遠の滅びから救いたい、ご自身のもとに取り戻したいとされておられるからです。

よって、もし創造主を認識する余地のない人間がいるのだとしたら、それは定義的に人間と呼べるものではありません。神が人間を「ご自身のかたち」として造られた以上、その人間が神を完全に忘れることは神がお許しにならないのです。

実際に、これまで多くの無神論者、また偶像礼拝の宗教の真っ只中にいた人たちが、イエス・キリストの福音を聞き、それを受け入れ、クリスチャンへと変えられて行きました。

人生の中に神を認識し、神に対して祈る、神と共に生きることを喜びとする。
これらのことは人間のみが持っている比類なきユニークな特徴なのです。

★では、その「人が神のかたちに造られた」ということについて、もう少し掘り下げてみましょう。

上記の聖書箇所は旧約聖書の創世記という書物からの引用なのですが、旧約聖書は一部を除いてヘブライ語で書かれました。

その原文であるヘブライ語で、ここでの「かたち」と訳されている言葉は「ツェレム(צלם)」と言い、その本来の意味は、「型(かた)」もしくは「影」です。
「かたち」と訳してしまうと、何か漠然としていて、抽象的な、どうとでも解釈できるニュアンスがどこかにありますが、しかしその原語の意味を考えれば、これは字義通りに「本体」に対しての、具体的な「型(かた)」もしくは「影」なのです。
その「本体」とは子なる神、キリストです。

⭐︎「型(かた)」と「本体」の関係、といっても、もしかしたら多くの日本人にとって明確なイメージが掴みづらいものなのかも知れません。

ですので、タイプライターを想像して頂ければと思います。

タイプライターは仕組みとして、文字キーを叩くとそれに連動するアームが動き、そしてアーム先端にある活字部分がインクリボン(インクが染みこんだ帯状の織物)に当たり、文字が紙に印字されます。

その紙に印字された文字が「タイプ(Type)」であり、「型(かた)」です。
「たい焼きの鋳物の型から無数のたい焼きが出来上がる」という日本語的な使い方とは実は全く逆で、そのタイプされた文字を生み出したアーム先端の活字部分こそが、「型(かた・タイプ)」に対する「本体」なのです。

「本体」が先ず存在してこそ「型(かた・タイプ)」が存在し、生み出された「型(かた・タイプ)」はその大元である「本体」を指し示す、これが「型(かた・タイプ)」と「本体」の関係なのです。

つまり、「人が神のかたちに造られた」とは、人は子なる神キリストを「本体」とする、その「型(かた・タイプ)」として造られた、という意味で、これこそが聖書が主張する人間観です。

キリストという人間存在の完成形(ブループリント)が先ずあって、私たちがあるのです。
人間は神を模して造られたのです。

これは被造物として破格の取り扱いです。

何故なら、人間はその創造の始めから、三位一体の調和の中に(あくまで被造物として、ですが)、組み込まれるように設計デザインされているからです。

この待遇は、能力的には人間より上位の御使い(天使)に対するそれよりも優れています。
堕落した御使いであるサタンが、人間に罪を犯させようとイヴを誘惑したのも、もしかしたらそのことに由来する嫉妬や恐れがあったのかも知れません。

​⭐︎そのサタンの目論見通り、最初の人間であるアダムが犯した罪が、人間の霊を殺し、神と人間との調和を破壊しました。

罪とは神の性質に反する全てのことです。

罪は神が良しとされるものを全て破壊します。神は聖なるお方ですので、そのようなものを一切受け付けられないのです。
その結果、アダムとイヴは神との調和ある交流を楽しんでいたエデンの園から追放されなくてはならなくなりました。

それ以降、人間は創造主である神を見失い、正常な神概念、人間観、自己認識を持ち得なったのです。
罪が神と人間の間に入っている限り、その不幸な状態は続きます。

それ故に、人間存在の大元である子なる神キリストが、人間の完成形として、一切罪のない人間として誕生し、この世界に来てくださったのです。
全人類の罪を一身に負い、その全てを清算するためです。
それがイエス・キリストの福音です。

※福音とは、中川健一牧師、また高原剛一郎氏が動画の中でわかりやすく説明されています。



福音を信じ受け入れた者は、それまで死んでいた霊の部分が復活し、三位一体の神との調和の中に再び戻ることが出来ます。
罪人がキリストを通して神の子どもとされるというのは、そういう意味なのです。

⭐︎ちなみにクリスチャンはよく、キリストが私たちの罪を贖ってくださった、そしてその贖いを通じて私たちは神と和解することが出来た、というような言い方をします。

全くその通りであり、間違ってはいません。
しかし「贖い」も「和解」も、元々は「カタラゲイ(καταλλαγή)」というギリシャ語の一語から訳出されています。
そこには「ただ仲直りする」ということ以上に、「本来持っていた調和を取り戻す」という意味があります。

つまり、キリストの福音の本質、成してくださった働きの本質とは、「神と人との破壊された調和を回復させる」、「失われたエデンの園の状態を取り戻す」というところにあるのです。

この事実は私たちの世界観、歴史観、人生観、生き方を変えます。

私たち人間は、猿のようなものの子孫でも、偶発的に誕生した細胞の塊でもありません。
生産性を失ったら捨てられてよい存在ではありません。

私たち一人一人には神の姿が刻まれているのです。

この罪で支配された世界は、私たち人間が本来、安住すべき場所ではありません。

この世の真実は、愛であり、希望であり、命なのです。

どうか今、人間存在の完成者であるイエス・キリストの命がけの福音を信じ、無代価で提供されている神との調和、天国をその両手で受け取って下さい。

心よりお勧めいたします。

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大城TED /漫画描きクリスチャン
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