見出し画像

イブキちゃんの聖書入門#28 「キリストはあなたを友と呼ぶ」

"人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたし(イエス・キリスト)が命じることを行うなら、あなたがた(キリストの弟子たち)はわたしの友です。
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。"
ヨハネの福音書 15章13~15節

★慈しみ深き

⭐︎東日本大震災が起こった2011年、私(大城TED)はその年の秋に、生まれて初めてプロテスタント福音派の教会の礼拝に参加しました。

それから約3ヶ月間、毎週教会に行き、その教会のクリスチャンから頂いた聖書を読み(クリスチャン用語でそのような状態の人を『求道者』と呼ぶ)、福音とは何かを理解し、遂には、キリストの十字架の罪の贖いと3日後の復活を信じ、信仰告白に至りました。

その数ヶ月後の2012年の4月に洗礼を受け、「キリストの弟子」としての一歩を踏み出したのです。

当時、私は長野県の軽井沢地方に住んでいたのですが、そこでの仕事に中々慣れず、心身共に苦しい状態にありました。

毎週日曜日の教会での温かいクリスチャン同士の交流と、一転して月曜日から始まる職場での冷たい、建前だけの人間関係の温度差も相まって、正直なところ「もう職場には行きたくない」と、金曜と土曜の夜以外は毎晩鬱々しい気持ちで押し潰されそうになっていました。

そのような時、私は少しでも、教会で味わっているような「キリストにある平安」を得ようと、YouTubeを開き幾つかの讃美歌を流して、それらを離乳食かのようにじっくり味わい、咀嚼し、吸収していました。

その中の特に好きな一曲が、かの有名な「慈しみ深き」です。

慈しみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを 取り去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を

慈しみ深き 友なるイエスは
われらの弱さを 知りて憐れむ
悩み悲しみに 沈める時も
祈りにこたえて 慰めたまわん

慈しみ深き 友なるイエスは
変わらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 捨て去る時も
祈りにこたえて いたわりたもう

目を閉じ、その歌詞の意味に全体重を委ねていると、今まさに、キリストが自分の隣にまで近寄り、心の中の鉛のような苦しみ、思い煩いの1つ1つを優しく取り除けてくれるような、そのような地上のものには決してない安心感に包まれました。

上手く生きることが出来ない、不器用な自分の苦しみを、また情けなさを、何よりもキリストが一番理解して下さっておられる、理解されるだけではなく、私と一緒に体験して下さっておられる、そのような確信が与えられていました。

「友なるイエス」
は確かに、その時に私の傍におられ、今でも同じように、いや、更に近くにおられるお方なのです。

★弟子を友と呼ぶキリスト

"人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたし(イエス・キリスト)が命じることを行うなら、あなたがた(キリストの弟子たち)はわたしの友です。
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。"
ヨハネの福音書 15章13~15節

⭐︎新約聖書には4つの福音書があり、そのそれぞれには「生き物に喩えられる特徴」を有している、とされています。

その「生き物」とは、獅子、雄牛、人間、鷲、であり、以下のような関係付けがなされています。
(カトリックとプロテスタント、また教派によっては、この組み合わせが違って来ることもあるそうです)。

マタイの福音書 → 獅子(獅子は『王』のシンボル。『王』であるキリストの姿が示されているから)

マルコの福音書 → 雄牛(雄牛は『しもべ』のシンボル。『しもべ』として謙遜に奉仕するキリストの姿が描かれているから)

ルカの福音書  → 人間(そのまま『人間性』のシンボル。『理想的な人間』として活動されたキリストの姿にフォーカスしているから)

ヨハネの福音書 → 鷲(鷲は『神性』のシンボル。神であるキリストの姿を見ることが出来るから)

⭐︎…もしその「4福音書の生き物の喩え」が聖書的に正しいのであれば、「キリストが弟子を『友』と呼ぶ」という、そのようなエピソードは、本来ならば「マルコ」か「ルカ」の、どちらかの福音書が取り上げるのが適切であるように感じられます。

しかし、上記に引用した聖書箇所は、キリストの「神性」が中心テーマであるはずの「ヨハネの福音書」に書かれてあるものです。

とすれば、最もキリストの神としての在り方、威厳、崇高さが描き出されているとされる「ヨハネの福音書」にて、キリストは弟子たちを「友」と呼ぶことを決められた、と言えます。

(ルカの福音書12章4節でもキリストは弟子たちを「友」と呼んでいますが、「『友』と呼ぶことを決められた」というキリストの明確な意志が現されているエピソードは、この「ヨハネの福音書」のみに書かれている、という意味です)。

神と人間との間には、決して乗り越えることが出来ない壁があります。

創造主と被造物の関係であり、神は無限であり、人間は有限です。

神には罪が一切なく、しかし人間にはアダム以来の罪があります。

宇宙の全ての事柄に対して、神は主権を持っておられ、当然人間も、その神の権威、支配から外れて生きることは出来ません。

そのような圧倒的な神が、神そのものの姿を示されるのであれば、それは人に対して「友」として歩み寄られる神である、ということ。
実に、聖書が語る神とはそのようなお方である、という隠れたメッセージが、もしかしたらそこにあるのではないか、という気がします。

⭐︎「わたし(イエス・キリスト)が命じること」とは、「互いに愛し合いなさい」ということです。

生まれたままの罪ある人間の努力では、誰一人として、そのキリストの「互いに愛し合う」という命令は実践出来ませんが、キリストを救い主として信じた瞬間に与えられる「神の霊(聖霊)」の働きがあるのであれば、それは可能です。

聖霊とは、三位一体の神、ご自身であるお方で、「イエス・キリストの福音」を信じて本当に救われたクリスチャンであれば、皆、例外なしに与えられています。

そのようなクリスチャンは「キリストの弟子」であり、同時に「キリストの友」です。

イエス・キリストがこの地上を歩まれた2000年前のユダヤ人の文化では、師弟関係の絆は非常に強く、ある場合では、弟子はその師を実の父親以上に敬愛することが要求された、とも言われます。
一方で「友」と言えば、どこまで行っても対等の関係であり、上下関係のしがらみがない深い心の交流を持つことが出来ます。

キリストは自らその関係に、クリスチャンを招いておられるのです。

もちろん、キリストはまだクリスチャンではない人たちに対しても、先ずはクリスチャンへと変えられるように、招いておられます。

キリストは全ての人が救われて、真理を知り、「キリストの友」となることを切に望んでおられるのです。

⭐︎キリストは私たちがどれほど愚かでも、仕事が出来なくても、コミュニケーション能力がなくても、決して見下すことはありません。

例え、あなたが裁判で裁かれるような罪を犯したとしても、それにより周囲から、家族からでさえも関係を切られるようなことがあったとしても、キリストはあなたを突き放すようなことはしません。

仮に、あなたが多くの敵に囲まれているような状況であったとしても、キリストはその敵と一緒になって、あなたを悪く言ったり、攻撃して来るようなことはしません。

何故なら、キリストはあなたの造り主であり、あなたの全てをあなた以上に知っておられ、その上で、あなたの「友」となられたいお方であるから。
ご自身のかけがえのない「友」として、あなたを取り扱われたいと、十字架によってその命を捨てても良い程に願っておられるお方だからです。

実にキリストは、あなたを「友」とする為に、十字架に着き、あなたの罪の裁きを全てその身に受けられ、死なれ、そして墓から復活されたのです。

もしそのキリストをそれでも拒むのであれば、それこそが「罪」であると言えるのではないでしょうか。

どうか今、あなたを「友」と呼びたい神であるキリストのその招きに応答して下さい。

この世が与えるものとは全く違う、真の平安、希望、喜びがそこにあります。

いいなと思ったら応援しよう!

大城TED /漫画描きクリスチャン
サポート(献金)して頂いたお金は『イブキちゃんの聖書入門』をはじめ、イエス・キリストの福音の拡大に与するより優良なコンテンツ制作の為に大切に使わせて頂きます。