イブキちゃんの聖書入門#31 「美大生の憂鬱」
⭐︎私は東京都内のとある美術大学出身です。
美術大学にも様々な部活があり、私はその中でも「相生道(そうせいどう)」という非常にマイナーな古流柔術の部活に入っていました。
相生道の練習は確か火曜、木曜、土曜の夕方から行われていたと思います。
その週3回の練習が終わると、私たち部員は大学構内の端っこの方に位置する「クラブ棟」という部室がある棟にまで引き上げます。
「クラブ棟」には文化系、体育会系問わず、ほぼ全ての部活動の部室が収まっており、棟全体が常に、タバコや酒や吐瀉物の臭い、生ゴミのすえた臭いに覆われていました。
週末や何かイベントある度ごとに、棟の中心の中庭のようなスペースで学生による炊き出しが行われ、当然そこでは酒が振る舞われ、その都度、やや度を超えたどんちゃん騒ぎが起こっていたからです。
「クラブ棟」はさながら大学構内における「学生自治区」と言うべき無法地帯でした。
私たち相生道の部員たちは体育会系の中では比較的大人しい方で、私も含めてあまりそのようなどんちゃん騒ぎに積極的に加わることはなかったのですが、それでも酒の誘惑、正確には「自由」の名の下に酒を飲むことによってその狂乱の中に身を落としたい誘惑は強く、時には私もその輪の中に入り、焼酎を一気飲みしたり、半裸状態になったり、記憶が飛ぶまで飲み、騒ぎ明かしたこともあります。
気付けば相生道の部室で仰向け状態で寝ており、着ていた服が酒やら何かの液体で濡れており、被っていたニットキャップが焚き火で燃やされていた、ということもあります。
そのような時は大抵、気持ちの悪い口と胃の中に水を流し込めながら、「何であんな馬鹿騒ぎをしたんだろう」という後悔の念に苛まされ、半日は二日酔いで苦しむのが常でした。
確かに酒を飲み、どんちゃん騒ぎをしている間は楽しかったのかも知れません。
けれども、そこから得られるものは何もなかった、という虚無感が、二日酔いの苦しみを倍増させていたように思えます。
⭐︎酒を飲んでいる時は、その酩酊感による快感、万能感、楽園の心地良さが永遠に続くかのように錯覚してしまいます。
しかし酔いから覚めると、忘れていた「現実」と直面しなくてはならない。
その「現実」とは、いくら楽しいことがあっても自分はいつか死ぬ、という「現実」、一時的な刹那的楽園を満喫したとしても、本当に心から笑える、心から平安を享受できる世界は絶対に来ない、揺るぎない平安は絶対にない、という「現実」です。
思えばクリスチャンになる前、特に美大生だった時は、この「確定的な絶望感」からどう逃げるか、忘れるか、いや、その「絶望感」に対して果たして勝利を得られるかどうか、が生きる上での命題であったように思えます。
人間の努力、頑張り、力では、「確定的な絶望感」に対して勝利をすることは出来ません。
いくら努力をしても、誰も死を克服出来ないように、「揺るぎない平安」は人間本位の頑張りや工夫で手に入れることは出来ないのです。
ましてや、いくら酒を飲んで酩酊したところで、虚無感、絶望感が増すだけです。
⭐︎しかし、人類の歴史上、唯一、死を克服されたイエス・キリストには、その解決と勝利があります。
上記に引用した聖書箇所の「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物」とは、ここでの前後の文脈から「試練に耐える神からの知恵と力」のことを指しています。
そのような神からの素晴らしい賜物(無償のギフト)が与えられる土台は、「イエス・キリストの福音」を信じる信仰にあります。
「すべての良き贈り物」の発祥である、神が無償で与えて下さる「イエス・キリストの福音」。
その福音を信じる信仰を通して働く神の力にこそ、全ての解決があるのです。
「イエス・キリストの福音」とは、
1:罪のない神であるキリストがあなたの罪の刑罰を代わりに十字架の上で受け、死んで下さった、ということ。
2:あなたの罪を負ったキリストは墓に葬られた、あなたの罪は既にキリストと共に墓に葬られた、ということ。
3:しかし神は死で終わらずに、3日後に復活して下さった、ということ。
死から復活されたキリストの前に、死は無力化されました。
死では終わらない、肉体の死の先には確実に、誰もが望んで止まない、永遠の平安、平和、安らぎの世界があることを、神ご自身であるキリストが歴史の中で証明されたのです。
「父」とは「イエス・キリストの父なる神」のことであり、「移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものがない」とは、その父なる神には偽りや気まぐれがない、ということです。
この神、キリストを知らない故に、美大生だった私は苦しんでいました。
いつの時代でも、聖書の神は常に真実であり、「期待外れ」というようなことは決してなく、そしてその与えられる救い、平安は一時的なものではなく、永遠のものです。
聖書の神は全ての良いものを、無償で惜しみなく与えて下さいます。
年末ということもあり、長文は控え、このような私を絶望的な虚しさ、滅びから無代価で救って下さった神の恵みに静かに思いを寄せたいと思います。