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イブキちゃんの聖書入門#76 「安らぎの詩篇(後後編)」

"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
詩篇 23篇1~6節

※前回(#75「安らぎの詩篇(後前編)」)の続きです。

☆前回は敵に囲まれた戦場の只中においても、神は平和と平安の体現とも言える「和解の食卓」を用意して下さることを説明しました。

(この「和解の食卓」には、第一義的には「神と罪人との和解」の意味が込められています)。

今回はこの「安らぎの詩篇 第23篇」シリーズの最後ということで、作者であるダビデが残した「第23篇の結論」を見て行きたいと思います。

☆ダビデは常日頃、神からどのような祝福を受けていたかを思い起こし、その都度に神に賛美を捧げていた人物でした。

神は「和解の食卓」を用意されるばかりか、自分の頭に溢れんばかりの香油を注ぎ、その喜びで満たされているとダビデは詠い上げています。

"私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。"
詩篇 23篇5節

ここでの「香油(シェメン)」(בַשֶּׁמֶן)とはオリーブオイルのことで、「頭に注ぐ油」はその中でも最高級のものです。

例え最高級のオリーブオイルであっても、現代日本人の私たちからすると、頭から油をかけられると思うと、何かベタベタヌルヌルするようなあまり心地良くない感じがしてしまいますが、しかし聖書時代のイスラエルの文化では、王や預言者、大祭司などがその職に就く時、「神によって任命された証」として他の預言者から頭に油を注がれる、という伝統がありました。

イエス・キリストの「キリスト」も、ヘブライ語の「メシア」(油注がれた者)をギリシャ語に翻訳したものです。

子なる神イエスは父なる神から「王・預言者・大祭司」として任命された故に、「メシア:キリスト」という称号で呼ばれられるのです。

※(イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、聖霊が鳩のような形を取ってイエスに下った時に「聖霊による油注ぎ」を受けたのですが、そのことも機会があればいつか解説してみたいと思います)。

とにかく、「頭に香油を注がれる」ということは「神からのお墨付きをもらっている」ということであり、非常に名誉なことです。

また「神の守りの中に組み込まれている」ということを視覚的に表現した行為であり、ここにダビデの持っていた平安と喜びの根幹があります。

神の確かな加護は、弱き神の羊であるダビデの人生を十分過ぎる程に覆い満たしており、それ故に「私の杯はあふれています」とダビデは詠っているのです。

☆そのこの上ない喜びの表現に続く形で、ダビデはその満たし主、与え主である神との関係の普遍性、また永続性を詠っています。

"まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
詩篇 23篇6節

「いのちの日の限り」とは、つまりダビデが生きている限り、どこに居ようとも、どのような状態であろうとも、ということです。

私たちは宇宙の創造主である神の手から逃れられることは決してありません。

どこに住もうとも、どのような心の態度であったとしても、無神論者でも、大罪人であったとしても、全ての人間は神の領域の中におり、神の恵みと裁きはどこまでも追って来ます。

神の目はいつも私たち一人一人に絶え間なく注がれています。

これは神を信じる者、キリストにある救いを得た者にとってはグッドニュースです。

しかし神に敵対する者にとってはバッドニュースです。

あなたは今、どちらに属していますか?

☆この最後の節の結論部分にて、神とダビデの関係は再び当初の「緑の牧場における羊飼いと羊」の関係に戻っています。

「私を追って来るでしょう」

という表現に、最高の羊飼いである神が、容易く迷ってしまう羊である自分を直ちに救いに追って来るイメージが込められています。

そのような場面転換があった故か、ダビデの神に対する呼び掛けは、再び「主(ヤハウェ)」(יְהֹוָה)に戻っています。

「私はいつまでも主の家に住まいます。」

ここでの「家(バァイエス)」(בְּבֵית־)は「神の住まい」である「第三の天」のことです。

極めて平たく言えば「天国」であり、福音(啓示された神の言葉)を信じて救われた者が肉体の死後に行く場所です。

(「第三の天」や死後の状態についての詳細は『イブキちゃんの聖書入門#23「個人的終末論⑥死者の場所(後編)」』をご参考下さい)。

「第三の天」においては、神と人との関係を破壊する罪が存在することは出来ず、よって人間は神の揺るぎない愛と恵みに溢れた永遠の時を神と過ごすことになります。

そして将来は、その「第三の天」はそのまま物質性を持つ「新天新地」となり、その中で全ての時代の救われた者たちが神との永遠の交わりを楽しむのです。

「新天新地」についての知識は黙示録まで与えられている今のクリスチャン程に明確には持っていなかったとは思いますが、しかしダビデの目はぼんやりにでも確信的にそれが成就した世界の姿を捉えており、ダビデは「天国の前味」を今現在の「主(ヤハウェ)」との関係性の中で味わっているのです。

☆ダビデの人生の結論であり、ゴールは「いつまでも主の家に住む」ことでした。

これはクリスチャンが普遍的に持っている希望でもあります。

あなたにもその希望はありますか?

全ての者を分け隔てなく愛しておられる神は、「イエス・キリストの福音」を通して、その希望を全人類に無償で提供されています。

ここに唯一無二の最高のクリスマスプレゼントがあります。

どうか今、あなたも、あなたの罪の為に死に墓に葬られ、しかし死で終わらずに3日目に復活されたキリストを自分の救い主と信じて、ダビデが味わった平安、喜びを自分のものにしてみませんか。

心よりお勧め致します。

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