イブキちゃんの聖書入門#75 「安らぎの詩篇(後前編)」
※前回(#74「安らぎの詩篇(中後編)」)の続きです。
☆前回までは、この詩篇の作者であるダビデは神(ヤハウェ)を「羊飼い」に、そして自分自身はその「羊」に見立て、例え「緑の牧場」でも、また「死の陰の谷」であっても、そこには圧倒的な平安と祝福があることを解説致しました。
今回はそこから場面は一気に変わり、戦い(戦場)の真っ只中にダビデは自身を配置しています。
☆ダビデは初代イスラエルの王であるサウル王に仕えてから、絶え間なく戦場に出向き、数え切れないほどの死地をくぐり抜けて来た戦士でした。
ダビデにとって「自分を殺しに来る敵に囲まれる」という状況は、決して特別なことではなく、日常の一部と言えるものでした。
しかしその渦中にあっても、敵が真正面にいても、神は自分の直ぐ傍で変わらない安らぎと十分過ぎる祝福を与えて下さった、そのことをダビデは思い起こし、賛美を捧げています。
☆「私の前に食卓を整え」とは、「家の主人が客人の為に給仕する」というイメージです。
中東の文化では、今でも特にベドウィンなどの遊牧生活をしている人々には強く残っているのですが、テント(家)を訪れて来た客人を非常に大切にし、ありったけのもてなしをします。
逆に客人に十分なもてなしをしないような者は、旅人を粗末に扱う冷酷な者、恥さらし者として扱われる程です。
そのもてなしの際は、家長である主人が率先して客人の食卓の給仕をし、食物、酒が切れないように気を配ります。
つまり、驚くべきことですが、ここにおいて天地万物を創造された神、ダビデ自身が「我が主」と畏れ仰ぐ神、ヤハウェご自身が、被造物であるはずの人間ダビデに真心をもって給仕されている、そのような姿が描き出されているのです。
☆この詩篇の1~3節では、神とダビデの関係は「羊飼いとその羊」であり、上下の結び付きでした。
そして4節では、神はダビデの指導者であると同時に、随伴者、友となり、横の結び付きも生まれて来ています。
しかしこの5節では、それまでの立場が逆転し、神がしもべのような姿となってダビデに仕えているのです。
この神のへりくだる姿は「人に仕える者」となってこの地上に来られたイエス・キリストと被ります。
☆またユダヤ的(へブル的)視点から見ると、このような「主人が食卓を整えて出される食事」は「和解の食事」です。
それまで敵対していた者同士が和解する時、立場的に上位の者の方から相手を食卓に招いて共に食事をする、上位の者が率先して給仕する、という文化がユダヤ人の間であったようです。
※(その様子は『ヨハネの福音書』の21章、イエスが弟子たちの為に朝食を用意され、彼らと食事をする場面にも現わされています)。
更にそこからもう一歩踏み込んで、聖書的にこの「神が人に対して給仕する」姿を考えてみると、それは「メシア的王国(千年王国)における晩餐の予表」とも言えます。
将来、この地上に実現する、キリストが王としてイスラエルから統治する「メシア的王国(千年王国)」が建て上げられるその始まりにおいて、キリスト(神)による人間を招いての大宴会が催されることが預言されています。
例外なく、全ての人間は神に対して罪を働く「罪人」であり、神はその被害者です。
神と人間は敵対同士にあります。
しかし神は愛そのもののお方であるので、罪を裁く権威があるにも関わらず、罪人を赦そうとその食卓に招いておられます。
神の方から、敵対者である私たち罪人の方に歩み寄り、へりくだり、「和解の食事」を用意されておられるのです。
キリストご自身がその地上生涯において、そのように、将来、罪人に給仕されることを預言されています。
聖書の神はご自身の敵対者に、裁きの前に赦しと和解を与えられるお方です。
このような神は他にはいません。
どうか今、あなたもキリストの最大の愛の現れである「キリストの福音」を受け取り、信じて、あなたの為に用意された「和解の食卓」の席に着きませんか。
神が給仕して下さる、信じられない程に素晴らしい大宴会がそこにあります。
※次回「安らぎの詩篇(後後編)」へ続きます。