イブキちゃんの聖書入門#29 「あなたの重荷をキリストに預けよう」
★休息が必要
⭐︎平成の時代の初期に、俳優の時任三郎さんが扮するサラリーマンが「24時間戦えますか」と力強く歌うCMが流行したそうです。
恐らく、当時はまだ「ブラック企業」や「サービス残業」「パワハラ」といった単語すらもなく、「働けば働いた分、豊かになる、幸せになれる」と当然のように信じられていた時代で、「身を粉にしてバリバリに働くサラリーマン」が格好いい、と思われていたので、そのようなCMが多くの人に受け入れられたのでしょう。
私の父も、いわゆる都会の企業戦士的サラリーマンではなく、田舎で小さな測量事務所を自営で興していたのですが、父曰く、当時は日曜日も殆ど休まず、毎日朝早い時間から夜遅くまで働いていた、それが自然だったそうです。
「もう働くことに疲れた、無理な要求ばかりしてくる会社の人間にはウンザリだ、自分の時間が欲しい、もう辞めたい」
というようなことを言えば、まるで人生の敗北者か落伍者かのように扱われてしまう、「24時間戦えますか」が共感された時代はそのような時代であり、その時の価値観や世界観は、未だにある一定の年齢以上の日本人には根強く残っているように思えます。
⭐︎しかし当然、人間は皆、休息を必要としています。
「休む=悪」という方程式に囚われ続けていると中々認識されないのですが、心身共に、人間は本人が思っている以上に脆く、傷付きやすく、壊れやすいのです。
もし自分や他者が脆い存在であることに実感が持てないのであれば、それはその人がたまたま幸運にも自身の内側にある弱さに直面して来ず、弱さの為に思い悩んだ経験が欠如している故である可能性があります(本当はそれは不幸なことなのですが)。
「24時間働けますか」が歌われていた時代辺りから、皮肉なことに、「過労死」また「過労自殺」という言葉も同時に世間を賑わせていたと聞いています。
例え「働けばその分報われる」と自分自身を鼓舞できた世の中であっても、人間の身体的、精神的な強度は無限ではなく、しっかりと限界は来るのです。
労働そのものは素晴らしいことですが、労働によって、最も大切な、最も守るべき宝である「命」が失うことになってしまうのであれば、それはまさに本末転倒です。
労働はあくまで「命」を繋いで行く為の手段であって、生命存在の目的とはなり得ないはずなのです。
⭐︎しかし、それでも、それがわかった上でも、私のようなバブル期を直接知らない世代の人間ですらも、「休息=悪」という的を外した勤労礼賛の呪いから中々脱却できずにいる現実があります。
「みんなが働いているのに、自分だけ休むわけには行かない」
「もし自分が休んでしまったら、他のみんなに迷惑がかかってしまう」
「簡単に休みを取ろうものなら、休み明けに何と言われるかわからない」
「怠けていると思われたくない」
「休みを取るべきではない理由」は常に私たちの胸の内で渦巻いています。
そしてついつい、自分の限界を超えて頑張ってしまうのです。
その結果、気付けば取り返しがつかない程に心身共に疲弊し、ある場合では長期の治療が必要となり、最悪の場合は命すら落としてしまうことさえあるのです。
⭐︎結局のところ、私たちを苦しめているそのような「呪い」は、人間関係に由来するものである、と言えます。
人間関係を気にする故に、「休みたい自分」に正直になれずに、自分自身に重荷を課せ続けてしまっている、と言えます。
むしろ人間関係そのものが、私たちにとって「重荷」であり「呪い」であると言えるのかも知れません。
そのようなまとわりつく「重荷」から自由になりたい、と誰もが願っていても、しかし、それは叶わないことだと殆どの人が諦めてしまっているように思えます。
…会社を始め、近所付き合い、家族との関係、その一切のしがらみから解放されればどれ程に幸せだろうか。
しかし、生きて行く上で、それらの関係性を断ち切ることは出来ない。
このような今負っている「重荷」は生涯付き合っていくものであり、あくまで自分の問題として処理して行くべきものである、と。
例えどれ程親しくても、他者が自分の重荷を負うことは出来ない、それは当然の、常識的な考えです。
ところが、イエス・キリストはそのような私たち一人一人に聖書を通して語り掛けています。
「あなたの負っているその重荷を私のもとに持って来なさい」
と。
★安息にならない安息日
⭐︎これは今から約2,000年前に、キリストが当時の一般的なユダヤ人市民たちに対して語られた言葉です。
当時のユダヤ人たちは、物理的にはローマ帝国の支配下にあり、また精神的、宗教的にはパリサイ派と呼ばれるユダヤ教のグループの影響下にありました。
モーセがエジプトで奴隷状態にあったイスラエル人をカナンの地へと導いて以来、イスラエル人(ユダヤ人)はその出エジプトの道中で神から与えられた「モーセの律法」を大切にして来ました。
しかし、パリサイ派は「モーセの律法」を厳格に守ろうとするあまり、「モーセの律法」にはないパリサイ派独自の律法を多く作り出し、それをユダヤ人全員がしっかりと守るように指導していました。
例えば、有名な「モーセの十戒」の中に「安息日を守れ」という規定がありますが、パリサイ派は「安息日を守ること=労働をしてはならないこと=何もしてはならないこと」と解釈し、毎週金曜日の日没から始まる安息日には、パリサイ派が規定する「労働」の一切をしてはならないと厳しく教えていました。
パリサイ派が規定する「安息日にしてはならない労働」は、実に1,500種類以上に及び、そこには普段の仕事はもちろん、料理や買い物、病人の治療など、通常の人間らしい生活を維持する為に必要な行為のほぼ全てが含まれていました。
その規定の中には「安息日には草の上を歩いてはならない」というものさえあったとされています。
もし迂闊に草の上を歩いてしまえば、草に隠れている麦を踏んでしまう可能性があるかも知れない。麦を踏めばそれは「収穫」の労働となり、芋づる式に「脱穀」やら「貯蔵」の労働を犯してしまうことになる、そのようにパリサイ派の人々は考えていたようでした。
こうなると、安息日は何も「安息」ではなく、「労働しないことを頑張る」という労働以上の労働を強いられる非常にしんどい日となってしまったのです。
もちろん、神がイスラエルに与えられた「モーセの律法」の「安息日の規定」は、そのような人の自由を奪う窮屈なものではなく、むしろ、奴隷状態から解放され自由人となったことを祝い記念する為のもの、その自由を与えてくださった神を讃える為のものです。
イスラエル人がエジプトで奴隷状態であった時は文字通りに24時間365日働き詰めで、休日などなかったからです。
神は愛するイスラエルの民に「自由人」として生きてもらいたかった。
その「安息日の規定」を与えられた神の真意を全く理解せず、当時のパリサイ派はただ人間的な宗教熱心さで、本来の安息日の喜びを骨抜きにするような不自由な規定を作り出し、それを一般民衆に押し付けていたのでした。
そのようなパリサイ派が独自で作り出した規律のことを、専門的には「先祖たちの言い伝え」、または「口伝律法」と呼びます。
いつの間にかその「口伝律法」が、本体である「モーセの律法」よりもユダヤ教の中で権威を持つようになってしまい、ユダヤの一般民衆はその数多の規定にがんじがらめになって実に不自由な思いをしていたのでした。
イエス・キリストは神であり、その「モーセの律法」の作者です。
キリストはそのようなパリサイ派の思い違いと傲慢、民衆の苦しんでいる姿を見て憤慨し、心を痛めておられました。
民衆はモーセの律法の精神から逸脱した「口伝律法」の重荷を背負わされ、疲れ果て、正しい判断力を失い、パリサイ派の人々が言うことに振り回されている状態でした。
パリサイ派が「ナザレのイエスは預言されたメシアではない、悪魔の力で奇跡を行っているのだ」と言えば、彼ら民衆の殆どがその意見を鵜呑みにし、パリサイ派と一緒になってイエスを拒否する、という有り様だったのです。
どこか、他人の目を気にして、自分らしい判断を下すことができない、そのようなしがらみの中でストレスを溜めながら生きている現代の日本人と似てなくはないと思います。
イエスはそのような民衆に対して「しっかりしろ、目を覚ませ!」と上から目線で叱咤するのではなく、
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
と語られたのです。
★あなたの重荷をキリストに
⭐︎「あなたを休ませてあげます」と断言出来るだけでも普通のことではないのですが、このイエスの言葉には続きがあります。
それは、
「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
というものです。
⭐︎「わたしは心が柔和でへりくだっているから」
とは、罪のない神であるイエス・キリストが語るから説得力があるものです。
普通の人が同じことを言えば、その時点で、その人は柔和でもへりくだってもいません。
キリストは罪の性質を宿さない故に、真実しか語らず、謙遜のつもりでも「私は柔和ではない」という嘘は言いません。
キリストが「柔和だ」と言われれば、その通り、「柔和」なのです。
キリストにとっての謙遜とは、「神の地位にあるのに、神としての力を捨てて、人間となってこの地上に来られた」ところにあります。
「無限なる神が有限である人間と同じ位置にまで下がられた」
「キリストの受肉」というそれ以上のへりくだりは、この宇宙上には存在しません。
⭐︎「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎを得ます」
「私のくびきを負って、私から学びなさい」
とは、どうやら当時のラビ(ユダヤ教の教師)たちが使っていた「ラビ用語」と呼ばれるもので、「私の学校に入学しなさい」という意味だと言われています。
「くびき」とは、2頭の牛や家畜などの首に付ける棒状の木製器具で、耕運作業や車両の牽引に利用されるものです。
「くびき」で繋がれた2頭は否が応にも足並みを揃えて歩くことが求められ、その姿から、イエス時代のユダヤ文化では「くびきを負う」とは「人生を共にする」という意味合いの慣用表現として用いられていたようです。
そこから転じて、ラビのもとで律法を教わることも、ラビと共に歩む、という意味で「くびきを負う」という表現が使われていたのだと思います。
イエス・キリストは、民衆が「パリサイ派的ユダヤ教のくびき」によって誤った方向へと進んでしまっている、またそれによって疲弊し切っていることを見て取っておられたので、あえて当時よく知られていたそのパリサイ派のラビたちが弟子を招く時の言葉を使って、「自分(キリスト)の学校に入りなさい」と言われたのです。
キリストは魂の安らぎを約束しておられます。
それこそが全ての人が心の奥底で求めているものであり、実のところ、私たちが労働に勤しむのも、究極的にはその「魂の安らぎ」が欲しいからではないでしょうか。
人は「キリストの学校に入学する=キリストを救い主と信じて弟子となる」ことによって、初めて魂に真実の安らぎをもたらすことが出来るのです。
それは全人類に無償で提供されている「イエス・キリストの福音」を心で信じることから始まります。
⭐︎「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
「キリストのくびきを負う=キリストと共に歩む」こと以外に、人は背負い込んでいるその重荷から解放される術を得ることは出来ません。
キリストが言われるように、「キリストのくびきは負いやすく、心地よく、キリストによる荷は軽い」のです。
キリストはあなたが一人で持ち抱えている重い荷物を、「私が持とう」と手を差し伸ばしておられます。
キリストはあなたの罪の全てを知っておられ、その上で、あなたのその罪を全て負われて十字架刑によって死なれたお方です。
しかし死で終わらずに、約束通りに3日後に墓から復活し、尽きない希望があることを示されたお方です。
そのキリストに、神であるお方に、あなたの重荷の全てを委ねても良いのです。
聖書の神はあなたを責め立てる神ではなく、重荷を課す神ではなく、あなたを癒し、解放し、自由にされる神です。
どうか今、そのキリストを信頼し、キリストに全体重を預けて寄り掛かって下さい。
具体的な魂の安らぎが、即座に訪れるはずです。