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イブキちゃんの聖書入門#64 「クリスチャンの男女交際①」

"結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。"
ヘブル人への手紙 13章4節

"不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。"
コリント人への手紙 第二 6章14節

☆東日本大震災が起こってから約半年が経過した2011年の秋のこと。

私はクリスチャンではなく、まさか自分がクリスチャンになるとは1ピコグラム程も思ってはおらず、聖書の「せ」の字も知らなった私は、病的なスピードで漫画のネームを担当編集者に送り付けながら、当時交際していた彼女(以後Y女史)と将来の結婚を見据えて同棲生活を謳歌しておりました。

「同棲」というものは、客観的に見れば非常によく出来た合理的な仕組みだと思います。

結婚という重大かつ責任が伴う決断をする前に、「恋人同士」というライトな関係性のまま「結婚生活の予行練習」を行うのです。

誰の迷惑にもならないし、法律違反でもない、「メリットだらけだ」と感じてしまうのは自然の思考だと思います。

当時の私も当然、Y女史と同棲をすることに、何の疑いも葛藤もありませんでした。

このプレ夫婦生活と呼ぶべき同棲生活をして行く内に、問題がなければ、まあ、なし崩し的に結婚(本番)へ移行するだろう、ぐらいに考えていました。

つまり、当時の私(またY女史)にとって、同棲は法的婚姻関係がないだけの、事実上の「気楽な夫婦生活」であったのです。

☆しかし、その状況はある時を境に一変させられます。

私が当時の住まいの近くにあったプロテスタント教会に通い始めたのです。

「通い始めた」と言っても、「キリスト教に入信しよう」と思って教会の門を叩いたのではありません。

あくまで「漫画のネタ集め」の為であり、プラス、何か御利益めいた話でも聞ければいいかな程度の、簡単に言えば「冷やかし半分」だったのです。

最初はY女史も私と一緒にその教会の礼拝、また礼拝後の食事会に参加していました。

私の利己的な動機で満ちた胸の内とは反して、その教会に集うクリスチャンの人達は、皆とても優しく、私とY女史を受け入れてくれて、決して金銭的に豊かではなかった私たち2人の同棲生活の苦労を親身になって聞いてくれました。

またある女性の信徒の方(以後Sさん)は、家が私たちの住まいと近かったこともあり、頻繁に私たちをそのお宅へ招待し、お米や何か食べ物を毎回のように私たちに持たせてくれました。

☆そのようなことが続いたある日のこと、Sさんが突如、私とY女史に向かって真顔で語り始めたのです。

「あのね、こういうことは、まだクリスチャンではないあなたたちに言うのはおかしなことかも知れないし、古い価値観の人間だ、と思われるかも知れないけど、やっぱり同棲しているっていうのは聖書的に良くないことだと思うの。
神様の前で夫婦と認められる状態になってから、初めて男女が同じ屋根の下で暮らす、それが結局は誰にとっても幸せなことだと思うのよ」。

その彼女のセリフがY女史にはどのように聞こえたのか知る由はありませんが、少なくとも当時の私にはやや奇妙に聞こえましたし、それ以上に何か畏怖すべき力強い「クリスチャンの信仰」というものを、私はSさんの言葉やその話し振りの背後に感じてしまいました。

Sさんや、恐らく、その教会の他のクリスチャンの方々も、何の良心の呵責もなく同棲生活を喧伝している私たち2人に対して、最初から決して清々しい思いは持っていなかったと思われます。

しかし、私たちがクリスチャンではない、聖書を知らないからということで、頭ごなしに「クリスチャン基準」を押し付けることをずっと堪えていてくれた。

言うべきタイミングを見計らって、不用意に傷つけないように、言葉を選びながら、しかし伝えるべきことは忖度せずに伝える、そのSさんの姿勢に、伝えている内容もさることながら、確かに私はクリスチャンという人種の人々が持っているだろう「愛と強さの本質」を見たような気がしました。

『神』という人格(神格)を愛する故に、愛と寛容を実践し、そして世俗の価値観や常識という型枠に囚われずに、軸がぶれない筋の通った正義を貫く。

「なるほど、それがクリスチャンか」。

その得心以来、私はクリスチャンとしての生き方に魅力を感じるようになったのです。

※次回「クリスチャンの男女交際②」へ続きます。

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大城TED /漫画描きクリスチャン
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