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イブキちゃんの聖書入門#21 「個人的終末論④ 地獄は誰のためにある?」
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"人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
マタイの福音書 25章31~46節
⭐︎本来であれば前回からの続きで、『個人的終末論④ 死者の場所(後編)』を解説したいところだったのですが、「地獄」というテーマを考えた時、どうしても語っておきたいトピックがありましたので、今回は個人的終末論の番外編として、「地獄は誰のためにあるのか?」についてお送り致します。
★カルヴァン主義
⭐︎今から5年ほど前のことですが、私はとあるアメリカ人宣教師の紹介で、テキサス州ダラスにあるダラス神学校に見学に行き、その時に現地のアメリカ人クリスチャンのご家庭に、2週間ほどホームステイすることになりました。
そのご家族と共に教会に行ったり、テキサスBBQのレストランに行ったり、早朝のバイブル・スタディに参加したりと、非常に中身の濃い楽しい時を過ごしたのですが、1つだけ違和感を覚えることがありました。
それは、そのご家族や彼らが繋がっている教会、また紹介してくださった宣教師の方々が、揃って「極端なカルヴァン主義者」だということでした。
「カルヴァン主義」とは、プロテスタン教会の中の教派の1つであり、簡潔にその特徴を言えば、それは「神の主権と恵みを強調するところ」にあります。
どこまでその特徴に寄るのか、つまり、どの範囲まで「神の主権と恵み」を強調するのかで、「極端なカルヴァン主義者」か、「普通のカルヴァン主義者」か、また「マイルドなカルヴァン主義者」かに分類されます。
(私もどちらかと言えば、カルヴァン主義を信じている者の1人であり、自分自身は「マイルドなカルヴァン主義者」だと思っています)。
大枠においては、カルヴァン主義の主張は決して間違っていないと思うのですが、「極端なカルヴァン主義者」になると、聖書が啓示している範疇を超えて「神の主権」を拡大解釈し、「人間の自由意志」の存在の全否定や、「キリストが全人類の罪のために死なれた」ことの否定、つまり、「キリストは『選ばれた者たち』のためだけに死なれた」という「限定的贖罪」の教理の支持に辿り着いてしまいます。
どういうことか、もう少し詳しく説明します。
神の主権によって「あらかじめ救われるように選ばれた者」は、どのようなことがあっても救われるし、逆に、「あらかじめ救われないように定められた者(選ばれない者)」は、どのようなことがあっても救われない、もしそれに人間の自由意志が関わり、左右されるのであれば、神の主権は人間の自由意志以下のものになってしまう、だからキリストは救いを完全なものにするために、「あらかじめ救いに選ばれた者たち」のためだけにその貴重な血を流されたのであり、「限定的贖罪」の教理は聖書的に正しいのだ…、
…ということです(表現の仕方とかが間違っていたらお教えください)。
兎にも角にも、これは極端なカルヴァン主義にだけに言えることではないのですが、聖書を「結論ありき」「神学の枠組みありき」で、それに合致するように演繹法的に読み込んでしまうと、途端にバランスの悪い聖書観を持つようになってしまうのです。
更にもっと悪いことに、そのように極端な教理に立てば立つほど、人はある種のいびつな選民思想を持ち、プライドを敬虔さの裏側に隠し持つようになってしまうことも多々あるのです。
ダラス行きを勧めてくださったその宣教師を始め、ホームステイさせて頂いたご家族の方々も、例外にもれず、彼らは「極端なカルヴァン主義者」のそれを持っていました。
彼らは素晴らしいキリストにある兄弟姉妹ではあることには間違いなく、大変に感謝していますが、しかし、正直なところ、彼らのその部分に関しては終始、居心地の悪さを感じていました。
(とは言え、流石に露骨にイヤな顔はできないので、笑顔で話を合わせていましたが)。
⭐︎そのような目に見える楽しさと目に見えない戦いが交錯する彼らとの交流の中で、未だに強く印象に残っている出来事がありました。
私が大分、テキサスでの日常に慣れて来出した頃、ショッピングモールへ買い物に行った帰り道、そのホストファミリーの旦那さんと私は車中でクリスチャンとして生かされている喜びについて、互いに楽しく語り合っていました。
その会話の中で、彼は、いかにカルヴァン主義が正しいか、優れているかについて、私に優しく語り聞かせてくれました。
彼は確信を持って力強く言いました。
「もしキリストが全人類のために死なれたのだったら、地獄は最初から存在しない」
と。
つまり、もしキリストが全人類のために死なれたのだったら、全人類は救われており、地獄に行く者は1人もいなくなる、しかし地獄は実際にある、地獄は始めから「神に選ばれていない者たち」が行く場所として神が創造されたのだ、地獄の存在が「限定的贖罪」の正しさを証明している…ということなのです。
「キリストが全人類のために死なれたら、それで何故、自動的に『全人類が救われる』という結論になるの?」
という疑問を持たれるかも知れませんが、そこは極端なカルヴァン主義の特徴に由来するもの、つまり、「提示された福音に対して、人間が自由意志によって応答する、それによって救いを受け取る」という、自由意志に関わる神学理解を排除しているために導き出されている結論である、とご理解ください。
「キリストが血を流された対象=救いが確定している」というコンセプトが、極端なカルヴァン主義の中に強く根付いているのです。
なので、極端なカルヴァン主義者は…、
もし「キリストが全人類の罪のために死なれた:血を流された」のだったら、地獄は「キリストの血で清められた者たち」で溢れかえっていることになる、キリストが血を流したにも関わらず、その者を救うことができなかった、だとしたらキリストの贖罪の業は不完全なものとなってしまうのではないか、しかし、実際はそうではない、罪人を救う神の業は完全であり、「地獄」は実際にあるのだから、キリストは選ばれた者たちのためだけに死なれたのだ、
…と考えるわけです。
※神はその主権により、あらかじめ人類を、「救われるように定められた者たち」と「滅びるように定められた者たち」の2つに分けられた。
天国は「救いに定められた者たち」のために、地獄は「滅びるように定められた者たち」のために、神はその両者を創造され、キリストは「天国に行く者たち:救いに定められた者たち」のためだけに十字架でその血を流された。
人間はその運命(予定)には逆らえない。
それが極端なカルヴァン主義者の基本的な聖書観なのです。
⭐︎「キリストの貴重な血は『選ばれた者たち』のためだけに流された。それ故に神の主権による救いの業は完全なのである」
この一見すれば理に適っていそうな極端なカルヴァン主義の彼の主張に、頭では納得できるところはあっても、
「いや、本当に聖書の神の愛はそういうものなのか?」
と心が追いついて行かなかったのが実際のところです。
どうも白人主義的な何か、聖書が書かれたユダヤ的背景から程遠い、温かみと普遍性に欠ける何かを感じぜずにはいられませんでした。
そのような「限定的贖罪」の理屈は、極端なカルヴァン主義の主張には合致しても、聖書全体の教えからは逸脱したものであり、そもそも、その手の「狭いキリスト教界の中だけで醸成されて来た神学オタク的な教理」は、キリスト教国では辛うじて喜ばれても、例えば一般的な日本人のようなキリスト教の土台がない人々には全く響かないものであると思います。
「キリストは愛です。しかしキリストは選ばれた者のためだけに十字架で死なれたのであり、あなたの罪のためには死なれていないのかも知れない」
極端なカルヴァン主義の教理に従えば、どうしてもこのようにしか伝道出来ないと思うのですが、そこに人をキリストに導く力があるとは到底思えません。
まず第一に、そのようなことを言われても、普通の人にとっては、一体何を言いたいのか、意味不明です。
全人類を永遠の滅びから救いたい愛なる神が、聖書を通してそのような「シビアな伝道の実際」から外れたような啓示をするはずはないと私は思います。
(第一に、前提としている「選び」の理解が、極端なカルヴァン主義は根本的に誤っているのですが、そのことについても、またいつか解説してみたいと思います)。
★地獄は誰のためにある?
⭐︎多少、話が遠回りになってしまいましたが、つまり、
「神は人間(選ばれなかった者たち)のために地獄を創造されたのか?」
ということです。
もちろん、答えは「NO」です。
"それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。"
マタイの福音書 25章41節
⭐︎この聖書箇所の背景を説明しますと、これは将来起こる7年間の大患難時代の最後に、キリストが地上再臨された後に、ヨシャパテの谷と呼ばれる場所で行われる「異邦人の裁き」について、イエス・キリストが弟子たちに対して言及しているところです。
「異邦人の裁き」は、大患難時代をくぐり抜けた異邦人(ユダヤ人ではない全ての民族)に対して行われるもので、地上再臨されたキリストがヨシャパテの谷に集められた異邦人を、「羊」(右側)か「山羊」(左側)かにより分ける裁きです。
裁きの基準は「ユダヤ人をどのように扱ったか」であり、反ユダヤ主義が蔓延る患難時代にあって、ユダヤ人(イスラエル人)に愛を示し、ユダヤ人に味方した異邦人は「羊の異邦人のグループ」(右側)に、逆に反ユダヤ主義に与してユダヤ人(イスラエル人)にひどいことを行った異邦人は「山羊の異邦人のグループ」(左側)に分けられます。
この引用した聖書箇所は、左側に分けられた「山羊の異邦人のグループ」に対する裁きを描写しており、反ユダヤ主義に加担した異邦人たちは皆、次に訪れる千年王国から除外され、その場で「永遠の刑罰」(最終的な地獄であるゲヘナ)に投げ込まれてしまうのです。
⭐︎ここで注目して頂きたいのは、「悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ」という箇所です。
「悪魔とその使い」というのは、悪魔(サタン)と、それに従う堕天使たち(悪霊たち)のことです。
「永遠の火」とは「最終的な地獄であるゲヘナ」です。
つまり、「地獄」は「悪魔と堕天使たち」のために用意された、ということです。
⭐︎人間のためには元来、「地獄」は用意されておらず、人間がそこに入ってしまう場合は、それは人間が悔い改めず、神の啓示、呼びかけに反応せず、神に反逆し、キリストによって罪の問題が解決されていないまま肉体的に死んでしまった場合です。
その場合は、その人は罪の裁きとして、悪魔、堕天使と同じ運命を辿るのです。
それ故に、たとえキリストが全人類のために血を流され死なれても、地獄に行く人間が0人でも、地獄は問題なく存在します。
ここが極端なカルヴァン主義が見落としている大きなポイントです。
この聖句で「地獄は『選ばれなかった者たち』のために用意された」という前提も、そもそもが「あらかじめ滅びに定まった者たちがいる」という前提も覆されます。
地獄の存在は「限定的贖罪」の正しさを証明するものではないのです。
★最もシンプルなこと
⭐︎悪魔(サタン)や堕天使(悪霊)たちは元々は良い天使でしたが、彼らは神に反逆し、堕落してしまいました。
その瞬間、彼らのその悪の性質は固定されてしまい、そこから救われる手立てを神から与えられませんでした。
聖書にはどこにも「悪魔、堕天使たちが地獄行きから救われる手段」は書かれていませんし、「罪から救われて良い天使に戻った」という堕天使は登場しません。
一方で、人間は違います。
私たち人間の祖であるアダムとイヴが、サタンの誘惑に乗って堕落した時は、神はすぐさま、「やがて女の子孫(キリスト)が現れて、サタンに完全に勝利する」という預言を彼らに与えられ、それ以後は「啓示された神の言葉(福音)を信用するのであれば、罪による永遠の裁きから救われる」という救いの道を人類に提示されました。
人間はあくまで神の愛の対象です。
それは私たち人間一人一人が、「神のかたち」に似せて造られているからです。
天使は確かに能力的には人間より優秀ですが、その点においては人間に劣ります。
神は人間のために地獄を用意されたのではなく、キリストを用意されたのです。
どのような人でも、人間の目から見れば「地獄に落ちるべき悪人」のような人であったとしても、「福音」を信じれば、その人は救われます。
この新約時代における、私たちが信じるべき「福音」とは…
1:人となられた神、一切罪のないイエス・キリストが、あなたの全ての罪を負って、あなたの身代わりとなって、罪の裁きを十字架の上で受けてくださった、ということ。
2:全人類の罪を負い、十字架で死なれたイエスは、墓に葬られた、ということ。
3:しかし神は死では終わらず、預言通り3日目に復活された、ということ。
この「イエス・キリストの福音」に、聖書の神の全人類に対する無条件の愛が現されています。
⭐︎極端なカルヴァン主義に傾倒する方々は、聖書の学びに熱心で、神学を大事にする傾向が非常に強いです。
それ自体はとても良いことであり、尊敬すべきところではありますが、一方で、合理主義的(ある意味で西洋主義的)に聖書の言葉を突き詰めよう、白黒はっきりさせよう、というところがあり、それ故に、結果として「人間の理解の枠内にはまった聖書理解」に囚われてしまっているのでは、と思います。
聖書で啓示されている「神の主権」を認めれば、人間の合理主義的論理展開では、どうしても「人間の自由意志による応答」を認めることは出来なくなります。
100か0か、の世界です。
しかし、聖書では「神の主権」も「人間の自由意志による応答」も、どちらの存在も明確に記されていますし、神が創造された高次元の空間では確かに、その2つは破綻することなく両立することでしょう。
ですが、極端なカルヴァン主義に陥ると、そのような視点は持ち辛くなる。
「人間の自由意志」の存在を排除すれば、自然と聖書に啓示されていない「限定的贖罪」の論理に行き着いてしまうのです。
人間の理屈を重視すればするほど、「最も単純なこと」が見えなくなって来ます。
「最も単純なこと」とは、人間を論理を超えた「神の愛」です。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネの福音書 3章16節
"神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。"
テモテへの手紙 第一 2章4~6節
「全人類に向けられた神の愛」
これがイエス・キリストの福音の本質です。
この神の福音を広げて行くための神学であるはずのなのに、神学にマニアックになってしまったがために福音の真実を歪めてしまうのであれば、これ以上に悲劇的なことはありません。
⭐︎「神は愛なり」。
この偽りの愛が溢れたこの世の中にあって、それが唯一、信頼すべき真実です。
「イエス・キリストの福音」を信じるのなら、誰でも救われます。
神は人間一人一人を愛しており、誰一人として、その愛する者を永遠の滅び、地獄へ行ってもらいたくはないのです。
全ての人間が、ご自身の元に戻って来てもらいたいのです。
神は今、あなたが与えられた自由意志を用いて、この提示された「イエス・キリストの福音」を受け取るように、切に望んでおられます。
どうかその神の招きに応答してください。
神は決して、あなたを裏切ることはありません。
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