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イブキちゃんの聖書入門 #14「聖霊なる神とは?」

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「そしてわたし(イエス・キリスト)が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
(ヨハネの福音書 14章16節)

★父なる神、子なる神、と続いて、今回は三位一体の神の第三の位格(ペルソナ)である『聖霊(せいれい)なる神』について焦点を当ててみたいと思います。

実のところ、聖霊に関する神学(『聖霊論』と一般的には呼ばれています)は、クリスチャンの中でも混乱し、意見の相違が顕著に現わされています。

​あるグループは聖霊の働きを過剰なまでに強調し、また一方で、あるグループは聖霊の存在を無いものかのように扱います。

一見、程良い中間的な立場を取るグループ、教会であっても、実際は聖霊なる神がどのような役割をなされるのかについて、正しい認識が及んでいないことが多かったりします。

聖霊論はそれぐらいに取り扱いが難しく、デリケートなテーマではあります。

が、しかしだからこそ、著者としては慎重に、これまでの記事同様に聖書の言葉と照らし合わせながら、混乱を起こさないように解き明かして行きたいですし、そのような使命と責任があると自覚しております。

というのは、聖霊論を聖書的に正しく理解した先には、聖書が本来私たちに提供している人智を超えた祝福と問題への解決があると確信しているからです。

これから何回かに回数を分けつつも、順を追ってご紹介して行ければ、と思っております。

⭐︎今回は先ず、「そもそも『聖霊』とは何ぞや」という基本中の基本からご説明してみたいと思います。

「聖霊」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを持たれますか?
(英語では the Holy Spirit。聖書の中で場合によっては「神の霊」、「御霊」(みたま)とも表現されます)。

その字面から、よく漫画などで描写されているような、何かプラズマ状の霊魂のようなものを想像してしまうのではないでしょうか?

実際に、昔の英語の聖書では「the Holy Ghost」と表記されており、そのためにステレオタイプのアニメチックな人魂やお化けのイメージを持ってしまい、中々そこから抜け出せなくなった、という英語圏のクリスチャンの方は意外と多いと聞きます。

そのように、単純に「聖霊」という言葉の響きからは、「宙に漂う無機質な霊体」としての聖霊イメージを多くの人は持ってしまうのかも知れません。

しかし、聖霊は父なる神、子なる神と同じ創造主なる神であり、他の位格がそうであるように、人格を持たれる存在です。

以下に挙げる聖書の言葉は、そのことを証明する代表的なものです。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
(エペソ人への手紙 4章30節)

「それから彼ら(パウロたち)は、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。」
(使徒の働き 16章6節)

聖霊が単なる無機質な霊体的なものあったりするのなら、「悲しむ」ということはあり得ませんし、また意志をもって人間の行動に干渉してくることもありません。

「聖霊は人格ある存在ではない。神から発するある種のエネルギーを擬人化したものだ」
というような見解は実はキリスト教界の内外で頻繁に発せられています。

が、けれども、聖書はそのようには聖霊を紹介しておらず、むしろ「無機物が擬人化されたもの」では説明が出来ないほどに、聖霊が知性と感情、意志をもってユニークに行動される存在であることを一貫して示しています。

明らかに、聖霊は「知情意」のある、人格を持たれるお方なのです。

⭐︎しかし例えそのような理解がなされたとしても、もしかしたら聖霊に神としての実体を中々見ることが出来ない、言い換えれば、聖霊が三位一体の神であるということに中々ぴんと来ない、という部分もあるかも知れません。

確かに人格があるからといって、それで自動的に「神である」とは言えません。

​そこで私たちが考えるべきは冒頭に掲げた聖書箇所です。

「そしてわたし(イエス・キリスト)が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
(ヨハネの福音書 14章16節)

この箇所はかの有名な最後の晩餐(過越しの食事)が終わった後、数時間後には逮捕され十字架につけられるイエス・キリストが弟子たちに語った、ある意味、「遺言」のような言葉です。

キリストはご自身が十字架上で死なれ、復活し、そして父なる神の元に戻られた後、地上に残された弟子たちには様々な迫害が襲ってくることを見越して、その目の前の弟子たちに励ましの預言を語られたのです。

ここで「助け主」と日本語で訳されている、新約聖書の原語であるギリシャ語は「パラクレトス(παράκλητον)」という言葉で、第一義的には、「呼び出されてその人のそばに立つ弁護者」という意味があります。
法廷で訴えられている人を助けるイメージがそこに込められているようです。

ちなみに英語の聖書では、このパラクレトスを「Comforter(慰める者)」と訳しています。この場合は「いつもその人のそばにいる」というニュアンスが強調された結果かと思われます。

そしてそのパラクレトスを形容する「もう一人の」と訳されているギリシャ語が重要です。
それは「アロス(ἄλλον )」という言葉で、「同じ本質を持つ別の何か」(英語に訳せば「another」)という意味です。
「既に人々に与えられていた助け主」とはキリストです。

つまり、それに対するこの「もう一人の助け主」とは聖霊であり、聖霊は子なる神と同じ神としての性質を持たれている三位一体の神である、ということをこの聖書箇所は示しているのです。

⭐︎そしてその聖霊が、キリストのこの預言通りに、復活したキリストが天に戻られた後、ペンテコステ(五旬節)というユダヤ人の祭りの日に、弟子たちの上に下りました。

そしてその日から、遍在される神である聖霊がその弟子たちの内側に住み、この地上に「教会」と呼ばれるキリストを信じる信仰者の群れ、組織が誕生したのです。

今は専門的には「教会時代」(もしくは「恵みの時代」)と呼ばれていますが、その時代は今から約2000年前の、聖霊が地上に降臨した「ペンテコステの日」から始まっているのです。
(教会はアブラハム、もしくはアダムの時代から始まった、と主張する神学体系もありますが、それは聖書的に見て正しいとは言えません。そのことについても、またいつか取り上げます)。

その「ペンテコステの日」以来、当時の弟子たちだけではなく、キリストの福音を信じ救いに与る人全てに聖霊がその人の内側に宿るようになりました(それを「聖霊の内住」と呼んだりします)。

クリスチャンへと変えられた人は、そうでなかった時と比べて圧倒的に罪に対して敏感になります。

クリスチャンではなかった時は、1日10回ウソをついても平気だったのに、それが1週間に1度ウソをついただけで心に責めを感じるようになります。

それはその人が「クリスチャンらしい立派な良い人になろう」と努力しているからではなく、内住する聖霊がその人に働きかけておられるからです。

聖霊なる神を内側に宿す信仰者は、神が喜ばれることを喜び、また神が悲しまれることを悲しむことが出来るようになります。
もちろん、そのためにはその聖霊のささやくか細い声にその都度、耳を傾ける必要があります。

神は人の自由意思を尊重されるお方なので、聖霊の声に傾聴するつもりもない人を無理矢理従わさせることはなされません。

しかし人がその聖霊の声に応答するのなら、一時的な世間との摩擦、罪の誘惑に対する戦いはあったとしても、最終的に神はそこに素晴らしい祝福を与えられます。

それはより深く神の力を知る、聖書が約束している事柄を実生活の中で体験出来る、という祝福です。

日々、聖霊の声に応答している信仰者は、次第に自分のものとは思えないような知恵や勇気、希望が内側から湧き、人生の困難や問題に対して勝利を見ることが出来ます。

社会に対しても信仰者として大胆にアプローチすることも出来るようになります。

⭐︎聖霊なる神はキリストが約束された「助け主」です。

罪の力に打ち負かされそうになってしまう信仰者を常に助け、どのような時でも、いつまでもその者と共に歩んで下さいます。

人間の力では出来ないことが、聖霊の働きによって出来るようになる、その祝福が聖霊を与えられた信仰者には待っているのです。

「旧約聖書の時代」は「父なる神が働かれる時代」、「福音書の時代」は「子なる神が働かれる時代」と言われたりします。

その流れで言えば、聖霊の降臨から始まった今のこの「教会時代」は「聖霊が働く時代」と言うことが出来ます。

信仰者には神の霊が宿る、その恵み、祝福は教会時代以前には想像すらも出来ないほどに大きなものです。

どうかあなたも今、キリストの福音を心で受け取り、神である聖霊と共に人生を歩む喜びと祝福を味わってみませんか?

​心よりお勧め致します。


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