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イブキちゃんの聖書入門 #9「いつも傍にいてくださる神」
「あなたがたの髪の毛さえも、すべて(神に)数えられています。」
(マタイの福音書 10章30節)
近年、特にこの日本では、「神」という単語が日常レベルで人々の口から出て来ています。
「神がかっている」
「神対応」
「○○は神」etc....
「普通ではない凄さ」を強調するための形容詞として用いられる場合が殆どです。
あえて「神」を気安く使うことによって、ある種の快感すら人々は覚えているのかも知れません。
⭐︎さて、ここで問題なのは、そのように「神」を取り扱う人たちにとっての「神」とは、果たして一体どういう存在なのか、ということです。
これは専門的に言えば「神概念」の問題です。
神概念の違いで、「神」の内容が異なって来るのです。
例えば、多くの日本人にとって、「神」と言えば八百万(やおよろず)の神々を思い浮かべるでしょう。
万物に「神」が宿る(山の神もいれば海の神もいる、トイレにもいる、という分業制の神概念)、という汎神論的神概念であり、この場合の「神」は「精霊」に近い存在です。
一方で、キリスト教国と呼ばれる国で生まれ育った人の多くは、「神=聖書の神:創造主」という一神教的神認識を一応は持っています。
しかし、「本当の意味でのクリスチャン」がキリスト教国の中にあっても少ないように、聖書の神を聖書が指し示す通りに受け入れる真の神概念を持っている人は少数派です。
真の神概念を持たない多くの人たちは、自身の創造主に対する全人的な畏怖や尊敬、愛、信頼がありません。
ですので、そのような人たちは、自称クリスチャンであっても、些細なことで、「Oh, my ○○!」などと恐れもなく簡単に神の名を口にしてしまうのです。
つまり、同じ「神」という単語を使っても、クリスチャンが言う「神」と、クリスチャンではない人が言う「神」とは根本的に異なるのです。
どういうことにせよ、聖書の神への信頼に裏打ちされた真の神概念を持たない限り、その人の神概念は「神=空想上の哲学的産物」という枠組みから抜け出すことはできません。
確かにそれであれば、「神などと実体のないものに人生を費やすのは空しいことだ」という結論を持ってしまうのも、ある意味では当然の帰結と言えます。
しかし、聖書の神は「人間が作った神」ではなく「人間をお造りになった神」です。
作品である私たちに実体があるのであれば、その作者にも実体があります。
そしてその作者である神は、私たち人間が想像すらもできないほどに、神聖であり、愛に富んだお方なのです。
しかもその神聖さと愛は、机上の空論ではない、具体性のあるものです。
神は具体的な神聖さと愛をもって、私たち人間一人一人を包み込んでおられるのです。
それは全て、イエス・キリストの福音に現わされています。
⭐︎本来、聖書の神は人間の目には見えません。
しかし、今から約2000年前に、実際に誰もが目に見える形で、人間の姿を取って、私たちの住むこの世界に現れて下さいました。
神は何もできない赤ん坊の姿となってこの地上に誕生し、平均以下の貧しい環境の中、人間として受けるべき愛を親から受け、通常の成長の過程を歩まれました。
人間として成長し、30歳となった神、イエス・キリストは、具体的に、病人を癒し、苦しんでいる人を助け、徹底的に蔑まされている人、弱者に寄り添いました。
最終的には、あなたが罪の裁きを受けないために、あなたの罪を代わりに負って、十字架で苦しみ、死なれたのです。
しかし神は死では終わりません。
墓に葬られ、その3日後に肉体を持って物理的に、具体的に復活されました。
それによって、キリストを信じる者は全て、キリストと同じように死に勝利することが約束されたのです。
宇宙の作者である神は、その被造世界に対して主権を持たれています。
つまり神はその一存次第で、この宇宙を一瞬にして終わりにすることができるのです。
しかし聖書の神はその神聖さと愛の故に、そのようなことはなされません。
むしろ神は、本来は滅びるべき罪人を救うために、その主権を用いて人間の歴史に介入されました。
十字架という目に見える形で、具体的にその神聖さと愛の痕跡をこの地上に残されたのです。
⭐︎聖書の神はあなた以上にあなたを知っておられます。あなたの髪の毛の本数すらもご存知です。
聖書の神はあなたの僅かな心の動きも見逃さず、あなたが傷付く時、悲しむ時は、あなた以上に傷付き、悲しんでおられます。
そしてあなたが喜ぶ時は、あなたとその喜びを共にしたいと願われるお方です。
聖書の神は常にあなたの傍らにおられます。
聖書の神は、あなたの罪、心の暗黒を全て知っておられて、尚もそのあなたを愛し、そのあなたのために十字架にかかられたのです。
聖書の神は現実以上に、現実的なお方です。
もしその神の神聖さと愛を否定するのであれば、これほど非現実的で空しいことはありません。
確かにこの世の中の、様々な宗教、哲学、神概念が乱立する中にあっては、「神に囚われない生き方」がいかにも合理的、また現実的であるかのように思えてしまいます。
しかしこの聖書の神を畏れ、愛し、信頼して、この神と共に歩む人生こそ、人間としての本来の人生であり、最も価値があることではないでしょうか。
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