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イブキちゃんの聖書入門#35 「ノアの箱舟は本当にあったの?② 大洪水以前の世界」
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"レメクは百八十二年生きて、一人の男の子を生んだ。
彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」
レメクはノアを生んでから五百九十五年生きて、息子たち、娘たちを生んだ。
レメクの全生涯は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。
ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。"
創世記 5章28~32節
★ありえない数字
⭐︎前回はノアに繋がる父祖たちの系譜、またその名前の意味について解説致しました。
今回は恐らく多くの読者の方が思わず突っ込んでしまいたくなるだろう「とある要素」について解説致します。
それは、この創世記に記録されている人々の「年齢」についてです。
"レメクは百八十二年生きて、一人の男の子を生んだ。
彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」
レメクはノアを生んでから五百九十五年生きて、息子たち、娘たちを生んだ。
レメクの全生涯は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。
ノアは五百歳になった。そしてノアはセム、ハム、ヤフェテを生んだ。"
創世記 5章28~32節
「777歳で死んだって何?」
「500歳過ぎて子供をもうけたの?」
と現代に生きる私たちの常識からは到底受け入れることが出来ないような、とんでもない年齢の数字が、創世記の大洪水以前では当たり前のように出て来ます。
最初の人間であるアダムに至っては、実に930歳まで生きています。
これを一体どのように考えたら良いのでしょうか?
その答えとして、聖書的には「ある2つの要因」が重なって、
「大洪水以前は人々は長寿だった、しかし大洪水以降は徐々に現在の私たちと同じ寿命に変化して行った」
と回答することが出来ます。
その「ある2つの要因」とは、
1:罪の影響
2:環境の劇的な変化
です。
★罪がもたらすもの
⭐︎ 「1:罪の影響」とは、アダム以来、人間の遺伝子の中に組み込まれるようにして後代に脈々と伝わって行く「罪の傾向」、つまり「原罪による影響」のことです。
以前にも書きましたが、人は本来は肉体的にも霊的にも死ぬべき存在ではなく、永遠に生きるべき存在でした。
(↓「最初はみんな草食?」を参照)
しかし、アダムが罪を犯してしまった為に、「罪と死の原理」がこの世界にもたらされてしまったのです。
アダムが罪を犯した瞬間、アダムとアダムに続く全人類は霊的に死んでしまいました。
「霊的に死ぬ」とは、「神から分離、断絶された状態となる」ということです。
肉体的な死は、霊的な死の後に時間を置いてやって来るようになりました。
(生まれたばかりの赤ん坊も、アダムの子孫ということで、その受け継がれた原罪故に、また転嫁されたアダムの罪故に、霊的には死んだ状態であり、肉体的にも生まれた瞬間に死へと向かっているのです)。
霊的であれ、肉体的、物理的であれ、「死」というものは罪の結果です。
確かにアダムは罪を犯し、「死」がこの世界に侵入して来ました。
霊的にはアダム以降の全人類が死にました。
しかしその始めの頃は、肉体的にはまだ「永遠に生きる」とされていた時の名残がそれでも強かったのか、人の寿命に今現在ほど罪の悪影響が及んでいなかった、と考えられます。
最初の人アダムは完全な健康体で造られました。にも関わらず、世代が下るにつれて、その遺伝子に欠損や異常が現れ始めたのでしょう。
時間の経過と共に、毒の如きに、その「原罪による人間の寿命への悪影響」は深刻化して行ったのです。
★環境がまるで違う
⭐︎「2:環境の劇的な変化」とは、その通り、「ノアの大洪水」の後、地球の環境がそれまでとは激変してしまったことを指しています。
簡単に言えば、大洪水以前の地球の環境は、動植物にとって「大変に快適で住みやすかった」と聖書から推測されます。
世界が罪と死の支配下に入っても、人間の寿命には「永遠に生きる」というかつての名残が暫く続いていたことと同じように、罪によってアダムとイヴが神の恵みで満ちた楽園である「エデンの園」から追放された後も、地球全体がその「エデンの園」に近い、快適な環境を維持していたと考えられます。
具体的にどのような環境かと言うと、雨は降らず、代わりに大地から常に豊かな水が湧き上がり、大気は水蒸気の膜で覆われ、常に温暖であり激しい気候の変動はなく、快適な湿度を保っていたと思われます。
当然、この時の世界には砂漠や氷原などはなく、どこもかしこも一面豊かな緑で覆われていたことでしょう。
"神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。"
創世記 1章6~7節
(この「大空の上にある水」が「水蒸気の膜」と解釈出来ます)。
"地(エデンの園)にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である主が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、大地を耕す人(アダム)もまだいなかった。
ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。"
創世記 2章5~6節
(この記述は、前章である創世記1章の神が植物を創造された3日目以前の状態を再記述しており、当然、その時点では人は創造されていませんでした。
ただ、世界の創造の初期の状態では「雨」というものは存在せず、代わりに豊かな水が大地の全てを潤していたと聖書は記録しています)。
⭐︎その状態が、大洪水によって破壊されます。
大洪水と言っても、実質的にそれは大津波であり、地上のものを全て破壊し、押し潰し、消し去ってしまいました。
またその驚異的な大水の水源も、「天」と「地」の2箇所から来るものでした。
"ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。"
創世記 7章11節
(「天の水門が開かれた」とは、「水蒸気の膜」となっていた創世記1章7節にある「大空の上のある水」が地上に大雨となって降って来たことを指しています)。
それまで、地上の人間たち、動植物を守っていた、快適な環境を提供していた水が、この時は破壊と裁きの為に牙を剥いたのです。
この大洪水の後、それまで程よく大地を潤していた湧水は枯れ、また有害な紫外線や宇宙線を遮り、湿度や温度を調整していた大気の水蒸気の膜は失われました。
地形も地面から勢い良く噴き出す水と津波の圧力によって変わってしまい、その時に「エデンの園」も破壊されてしまったと思われます。
環境が激変してしまえば、健康状態の維持も大変になって来ます。
季節の変わり目は風邪を引きやすい、と言われますが、季節の変わり目どころではない激しい寒暖の差が、また大洪水以前にはなかった宇宙から降り注ぐ有害な光線の悪影響が、大洪水から生き残り地上で生きて行かなくてはならないノアとその家族、全動植物に襲い掛かって来たのです。
★大洪水以降の寿命
⭐︎以上に挙げた「罪の影響」と「環境の劇的な変化」という2つの要因によって、「ノアの大洪水」以降では、人類の寿命は劇的に短くなり、やがて今の私たちが常識で考えられる年齢に落ち着いた、と聖書的に十分推察することが出来ます。
その証拠に、ノアの3人の息子たち(セム、ハム、ヤフェテ)の子孫は、時代が下るごとに徐々に短命になって行きます。
そのことも聖書は記しています。
"これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、アルパクシャデを生んだ。それは大洪水の二年後のことであった。
セムはアルパクシャデを生んでから五百年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。
アルパクシャデはシェラフを生んでから四百三年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。
シェラフはエベルを生んでから四百三年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んでから四百三十年生き、息子たち、娘たちを生んだ。"
創世記 11章10~17節
「ノアの大洪水」から約1,500年程経った時代に生きたモーセは120歳まで生きたと聖書は記述していますが、そのモーセは「詩篇」という旧約聖書の讃美歌集にあたる書の中で、
"私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。"
詩篇 90篇10節
と詠っています。
このことから、モーセや彼の後継者であったヨシュア(110歳まで生きた)は例外的に長寿であって、この時代で既に人々の平均寿命は現代と変わらないものとなっていることが伺えます。
最終的には、更にそのモーセの時代から数百年後のダビデ王の時代になると(BC1,000年頃)、人間の寿命は日本で言えば戦国時代の人々と同じぐらいの数字となり、少なくとも聖書の記述内では、100歳を超えるような人は殆ど現れなくなります。
★「永遠のいのち」
⭐︎「不老不死になること」。
それは私が少年時代に好きだった漫画やアニメに出てくる多くの敵のボスの究極の目的でした。
フュクションの世界に限らず、実際に歴史上の一部の独裁者も、不老不死を求め、その為のオカルトめいた研究や実験を行っていた、と聞いたことがあります。
富や地位、権力、自分が欲したもの全てを手にした者にとって、また自分を「神の如く」人々からの崇拝の対象としたい者にとって、唯一乗り越えなければならない問題は「死」であり、「死」を克服することこそ、その野望の完成であるのかも知れません。
しかし、今回見たように、人間はいつかは必ず死にます。
この地上に生まれる人間は全てアダムの子孫であり、アダム以来の原罪を受け継ぎ、アダムが犯した罪の転嫁を受けています。
「罪の報酬は死」であり、その「罪と死の原理」から自由になれる人間は1人もいません。
"そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、"
ヘブル人への手紙 9章27節
と聖書に書いてある通りです。
⭐︎「死」は確かに全てを津波のように奪い去る、抗うことが出来ない絶望的なものです。
が、反面、この今の罪が支配する世界にあって、「『死』が存在する」ということは、ある意味で神の祝福であるように思えます。
前述したような横暴な独裁者、人民を平気で虐殺する非道な権力者が死なずに生き続けているのであれば、それはまさに地獄であるからです。
「死」が存在するからこそ、悪の力に歯止めが掛かる、また人は謙遜になれる、と言えます。
⭐︎今のこの世界は「死」があることによって、罪人がしっかりと死ぬことによって、「正義と悪のバランス」が仮初にも、何とか保たれているように思えます。
ある意味で、聖書の神は、悪魔が支配する堕落した世界においても神の正義と秩序が実現される為に、「死」という現象を用いておられる、と見ることも出来ます。
しかし聖書の神は、完全なる愛と正義の神であり、全てのものに対して主権を持たれるお方なので、暫定的にそのような状態であることを許されてはいても、いつまでもそれが続くことを見過ごしてはおられません。
聖書の神は、いつか必ずこの世界を罪の支配から解放すると聖書を通して宣言されています。
神に造られた全ての存在、全宇宙が、「罪と死の原理」から自由になる、罪も死も跡形もなく消え去った世界を実現されると約束されています。
そのやがて訪れる世界を「新天新地」と呼びます。
"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節
⭐︎人間が考え出す「不老不死」はどこか魔術的であり、常にある種の不気味さと悲壮感があります。
しかし、聖書が約束している、神が人に与える「永遠のいのち」は、それとは全く異なります。
聖書が語る「永遠のいのち」とは、この「新天新地」に神と共に永遠に住まうことです。
この「新天新地」は罪が一掃された世界であり、それ故に「死」がありません。
罪があるのに「死」だけを揉み消したのではなく、創世記から続く聖書的論理の上で「死」がないのです。
罪から完全に解放された人間が、本来の姿となって、命の第一原因者である造り主である神と永遠に喜びながら一緒の時を過ごすこと、それが「永遠のいのち」であるのです。
実に「永遠のいのち」とは、「量」ではなく、「質」のことなのです。
これはどのような権力者も手に入れることが出来なかった素晴らしい本物の宝です。
神はその宝を全ての人に無償でプレゼントされようとされておられます。
それは「イエス・キリストの福音」(「恵みの福音」)を受け取ること、信じることによってもたらされます。
「イエス・キリストの福音」とは、次の聖書箇所に書かれてある通りです。
"兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。"
コリント人への手紙 第一 15章1~6節
これを3つの要素にまとめれば、
1:罪のない神であるキリストが、あなたの全ての罪を背負い、十字架によってその罪を代わりに精算された、ということ。
2:キリストは墓に葬られたこと。
3:しかし神は死では終わらず、預言の通りに3日目に復活された、ということ。
になります。
⭐︎神は1人でも「永遠の死」(地獄)に堕ちてしまうことを望まず、全ての人が「永遠のいのち」を持ち、ご自身と永遠の平安を享受することを願われておられます。
どうか今、このキリストを通して実現された神の愛そのものである福音を信じ、神と共に歩む幸せを手に入れてみませんか。
心よりお勧め致します。
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