見出し画像

イブキちゃんの聖書入門#42 「ノアの箱舟は本当にあったの?⑨ 大洪水(中編)」

"主はノアに言われた。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。
あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌を七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌を一つがいずつ、
また空の鳥の中からも雄と雌を七つがいずつ取りなさい。それらの種類が全地の面で生き残るためである。
あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生けるものを大地の面から消し去る。」
ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした。
ノアは六百歳であったが、そのときに大洪水が起こり、大水は地の上にあった。
ノアは息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻とともに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。
きよい動物、きよくない動物、鳥、地面を這うすべてのものの中から、
雄と雌がつがいになって箱舟の中のノアのところにやって来た。神がノアに命じられたとおりであった。
七日たつと、大洪水の大水が地の上に生じた。
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。
大雨は四十日四十夜、地に降り続いた。
ちょうどその日に、ノアは、息子たちのセム、ハム、ヤフェテ、またノアの妻と、息子たちの三人の妻とともに、箱舟に入った。
彼らとともに、種類ごとにあらゆる獣、種類ごとにあらゆる家畜、種類ごとにあらゆる地の上を這うものと、種類ごとにあらゆる飛ぶもの、鳥や翼のあるものすべてが箱舟に入った。
こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入った。
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。"
創世記 7章1~16節

★正しい人

⭐︎前回は、「ノアの大洪水」は実質的に全世界規模の大津波である、現在の地球環境は「ノアの大洪水」によって形成されたものである、と解説しました。

今回はその未曾有の大洪水の始まりについて解説致します。

⭐︎聖書の神は全知全能のお方であり、唯一、この人類の罪を正しく裁かれ、また救いを与えられるお方です。

その聖書の神がノアに「家族と一緒に箱舟に入りなさい」と命じました。

神はノアと、彼の家族(ノアの妻、3人の息子とその妻たち)の計8人のみを、大洪水の滅びから救おうとされたのです。

それはノア(とノアに属する家族)のみが、結局のところ、ノアが生きていた時代にあって、「神の前で正しいこと」が神に証明されたからです。 

"主はノアに言われた。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。"
創世記 7章1節

「ノアが神の前で正しかった」というのは、「ノアに全く罪がなかった」ということではありません。

ノアも罪を犯した最初の人間、アダムの子孫であり、アダム以来の罪性質、原罪を持って生まれて来た者であり、そのままの姿では神の近づくことは出来ない、「罪の赦しを必要とする罪人」の1人に過ぎません。

ノア(とその家族)は、本来は、他の人類と同じように大洪水で滅ぼされたとしても文句は言えない立場にあったのです。

ここでの「ノアが神の前で正しかった」というのは、「ノアは神の言葉を信頼した」ということであり、それ故に、罪があるにも関わらず、「神から正しいと認められた」ということです。

これは、聖書的には、「信仰による義」という言い方で表現されることがあります。

新約聖書の『ヘブル人への手紙』でも、そのことについては以下のように解説されています。

"信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。"
ヘブル人への手紙 11章7節

⭐︎「ノアの箱舟」の建造年数は諸説ありますが(120年間なのか、それとも100年間ぐらいか、またそれとも70年間程度なのか)、言えることは、ノアは大洪水が起こる何十年も前に、神から直接、「やがて世界を滅ぼす大洪水が起こる。だからその裁きを免れる為の箱舟を造りなさい」という命令(警告)を受けていました。
(創世記6章9〜22節参照)

以前にも書きましたが、ノアの時代には雨が天から降ったことはなく、当然、その時代の人々は皆、「洪水」というものが一体どういうものなのか知る由もありません。
ノアもその例外ではありません。

「まだ見ていない事柄」とはそういう意味です。

(ノアの時代には雨が降らなかった、ということについてはこちらを参照↓)

しかし、ノアは、ただ「神がそのように言われたので」ということで、未知のものにも関わらず「大洪水が起こる」という未来のことを信頼し、神が命じた通りに箱舟を建造しました。

その「信仰」(信頼)が、ノアと、また家長であるノアの言うことに従ったノアの家族を滅びから救ったのでした。

★神の締切

⭐︎ノアは神が命じられた通りに、大洪水に先立って、「きよい動物」を7つがい、「きよくない動物」も1つがい、鳥を7つがいを事前に集め、箱船の中に収めました。

このノアの時代から約1,000年後に、「モーセの律法」というものがイスラエル民族に与えられ、そこで儀式的な意味で「きよい動物」と「きよくない動物」の区別がイスラエル人に示されましたが、そのように「律法」として啓示される以前からも、動物の「きよい・きよくない」の区別はあったようです。

基本的に「きよい動物」とは、神への捧げ物(生贄)として用いることが出来る動物で、「蹄が分かれており、反芻する」という条件を満たした動物、つまり、牛、羊、山羊などです。

反対に「きよくない動物」(けがれた動物)で代表的なものは、豚やラクダなどです。

大洪水の後にノアは早速、神への祭壇を築き、そこでこの時に取り分けた「きよい動物」の幾つかを全焼の生贄として神に捧げました。
もちろん、それらは人間の食用にもなりました。

また「きよくない動物」も、農耕や牧畜、荷物の運搬、食物連鎖のバランスを保つために必要とされました。

神は私たち人類が生きる為に必要なものを、あらゆる面で過不足なく備えて下さるお方です。

⭐︎そのようなノアが「きよい・きよくない」動物のつがいを取り分けた7日後、ノアが600歳になった時、ついに神の約束通りに、人類史上、初めての雨が降り始めました。

ノアと彼の妻、3人の息子たちとその妻たち、計8人は、もうその時には既に箱舟に入っていました。

また事前に取り分けた動物以外の全ての動物も、それぞれオスとメス2頭ずつ、つがいとなって自ら箱舟に入って来ていました。

彼らはノアが世界の隅々まで行ってかき集めたのではなく、神が箱舟まで誘導し、集められたのです。

"きよい動物、きよくない動物、鳥、地面を這うすべてのものの中から、
雄と雌がつがいになって箱舟の中のノアのところにやって来た。神がノアに命じられたとおりであった。"
創世記 7章8~9節

⭐︎全動物が一斉に、何かに導かれるように、つがいとなってゾロゾロと箱舟(巨大な長方体の建造物)に向かっている。

そのような「異様な光景」を目にしたノアの家族以外の当時の人々は、何を思い、何を感じたのでしょうか。

聖書にはそのような人々のリアクションは描かれていないのでわかりませんが、恐らく「何かしらの不穏な気配」は感じたでしょうが、しかし、まさかノアが熱心に語っている「大洪水による破滅」がこれから実現するとは夢にも思わず、直ぐに彼らの目前に展開する日常の生活、酔狂、喧騒に心が奪われ、また「これは洪水の前触れなんかじゃない」という「どこからともなく上がって来る声」に当たり前のように聞き入ったことでしょう。

聖書にはノアとその家族の8人以外の人間は誰1人として大洪水から助からなかった、と明記されています。

ノアとその家族以外の全ての人々は、120年間のノアの伝道、また大洪水直前の異様な動物たちの行動、という前兆を見ながらも、体験しながらも、結局のところ、「大洪水の到来を信じて箱舟に入る」という選択をしなかったのです。

以前にも書きましたが、洪水が始まる直前まで、厳密に言えば「神が箱舟の戸を閉じられる」直前まで、箱舟の入口は全ての人々に対して開かれていました。

しかし「神の時」が来て、神の手によって、その箱舟の戸は閉じられてしまったのです。

"彼らとともに、種類ごとにあらゆる獣、種類ごとにあらゆる家畜、種類ごとにあらゆる地の上を這うものと、種類ごとにあらゆる飛ぶもの、鳥や翼のあるものすべてが箱舟に入った。
こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入った。
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた。"
創世記 7章14~16節

一度、神によって閉じられた戸は、何があっても開くことはありません。

当時の人々は、頑なに自ら救われる可能性を放棄し続け、その念願が叶って、ついには大洪水による滅びを見に受けてしまった、ということなのです。

⭐︎神は愛であり、忍耐深いお方ですが、一方で完全なる正義のお方であり、罪を罪のままでいつまでも放置することは出来ないお方です。

神の忍耐は有限であり、必ず「恵みが裁きに変わる時」が訪れます。

今の時代は「ノアの時代」がそうであったように、神からの啓示(聖書)を信じて「滅びから救われる道」(福音)を熱心に語るクリスチャンが存在する一方で、大多数の人々はそのような言葉に耳を傾けず、日毎の楽しみ、思い煩い、メディアが喧伝する声に心を傾け、感情と価値判断をそれらに委ねる生活しています。

当然のように、「今日の命はまた明日も同じように続いて行く、滅びなどない」と嘯いて、この聖書の神抜きの人生で全く問題がないと確信して生きています。

しかし、神は確実に「終わりの時」(裁きの時)を設けられています。
いつか必ず、神は「うしろの戸」を閉じられます。

その時が訪れる前に、「福音」を受け取り、信じて、現代の「ノアの箱舟」であるイエス・キリストに身を寄せる人は幸いです。

★「見ずに信じる者は」

⭐︎クリスチャンは「信仰」という言葉をよく使います。

「信仰」と聞くと、しかし、何か堅苦しい、抹香臭いイメージを持ってしまうかも知れません。

一般的には宗教的な戒律や儀式体系を一生懸命に守ったり、宗教組織の枠組みの中で修行に励むようなことを、いわゆる「信仰」であると認識されている節があるからです。

しかし、聖書が語る「信仰」とは、実のところ、「啓示された(聖書という形を取って人類へ知らされた)神の言葉」に対する信頼と応答のことです。

それは「神の人格を信頼すること、神との人格的交流を楽しむこと」と言い換えることも出来ます。

「既に目に見えているもの」を信じることは、信仰とは言えません。
それはただの「確認」です。

「まだ目に見えていないもの」を信じるからこそ、信頼、信仰が働く余地があります。
信じるに値する価値が、そこにあります。

私たちの日常においても、友人と何かの待ち合わせの約束をする際も、基本的に「この人だったら確実にこの場所の、この時間に来てくれる」というその友人の人格に対する信頼があるから約束する訳です。

「まだ目に見えていなくとも、神が言われたことは信じる」というところに、神の人格に対する信頼があり、その「信頼」(信仰)が、「滅びからの救い」という神の恵みを引き出すのです。

⭐︎このことは聖書が啓示する普遍的な救いの原則であり、ノアの時代だけではなく、どのような時代においても適用されます。

人は努力や修行、行いによって、神から「正しい」と認められる、また滅びから救われるのではありません。

聖書の救いは常に、唯一、「信仰と恵み」によってもたらされるものです。

ノアが神からの警告、言葉のその内容を信頼して、神からの恵みによって滅びから救われたように、今の時代も同様に、神の啓示された言葉(福音:Good News)を信頼することによって、将来確実に起こる、永遠の滅び、また「7年間の患難時代」からの救いの恵みを頂くことが出来ます。

この今の(聖書的には『恵みの時代』と呼ばれる)時代の「福音」とは、

1:罪のない神であるイエス・キリストがあなたの罪を負って十字架につき、あなたの罪の裁きを代わりに受けて死なれた、あなたの罪はキリストが既に精算された、ということ

2:十字架で死なれたキリストは墓に葬られた、あなたの罪は既に墓に葬られた、ということ

3:しかし神は死では終わらず、キリストは3日後に復活された、ということ

です。

"兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。"
コリント人への手紙 第一 15章1~5節

いつの時代も、この聖書の神は、啓示された神の言葉に信頼した者を、無条件で「正しい者」と認めて下さいます。

どうか今、あなたも、「イエス・キリストの福音」を信じることによって、あなたの造り主である神と揺るぎのない信頼の関係を築き、その中で神が与えられる平安を楽しんでみませんか。

心よりお勧め致します。

いいなと思ったら応援しよう!

大城TED /漫画描きクリスチャン
サポート(献金)して頂いたお金は『イブキちゃんの聖書入門』をはじめ、イエス・キリストの福音の拡大に与するより優良なコンテンツ制作の為に大切に使わせて頂きます。