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イブキちゃんの聖書入門#62 「クリスチャンは酒飲まない?①」
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"また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。"
エペソ人への手紙 5章18節
"あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。"
ペテロの手紙 第一 4章3節
⭐︎トン、
と母は食卓の上に缶ビールを1本、置きました。
ある暑い夏の日の夕食時のことでした。
私はその目の前に置かれたそのキンキンに冷えてやがる缶ビールを見て、「ああ、困ったな、まだわかってないのか」と苦々しい思いに囚われました。
私はクリスチャンになる前はそれなりにお酒は好きな方でした。
毎日ではなくても、頻繁に晩酌をしていましたし、仲間と一緒に飲む時は羽目を外し、泥酔することも多々ありました。
しかしクリスチャンになってからは、付き合いで仕方なく飲むことはあっても、率先して以前のように飲むことは殆どなくなりました。
飲んだところで、何も楽しくないからです。
「楽しくない」ばかりではなく、心の責めと不安を感じるほどです。
飲酒は私にとって解放どころか、束縛を与えるものとなったのです。
それは私が「イエス・キリストの福音」を信じた瞬間に、「聖霊:神の霊」が私の心に注がれたからです。
⭐︎「聖霊:神の霊」が注がれると、神が喜ばれることを自分も喜び、悲しまれることを悲しむようになります。
どのような困難な時も、神が共に居てくださることを体験し、また同じクリスチャン同士の繋がりや、日々の生活の中で、天国の前味を味わえるようになります。
自分の努力や修行などではなく、神の力によって、そのように変えられるのです。
この地上のアルコールではなく、聖霊という天からの特上の酒で酩酊出来る状態を、クリスチャンは得させてもらっているのです。
ただクリスチャンではない母にはそれがわからない。
「聖霊が内側に住んでいる・聖霊に酔っている」という私の内的変化を、当然ですが、母は理解は出来ないのです。
「酒を断つ=宗教的な戒律に束縛されている不自由な人」という図式が、どうやら母の認識の中にあり、つまり私がクリスチャンになってから急に酒を飲まなくなったのは、母からしてみれば「キリスト教の戒律に従って、飲みたいのに無理をして我慢をしているんだ」と解釈されていたようでした。
「そのような可哀想な状態から息子を解放してあげる」という意味合いで、また「宗教」と呼ばれるものへの潜在的なリベラル的反発感からか、私が何度も食事の場で酒を拒んでも、当たり前のように、毎回のように、母は私の目の前に缶ビールを置くのです。
「もっと自由に生きなさいよ」と。
⭐︎聖書には「酒は一滴も飲んではならない」とは書いてはいません。
酒は飲んでも良いのです。
ただ「酩酊してはならない、むしろ御霊(聖霊)で満たされなさい」とクリスチャンに向けて命じています。
私が基本的に酒を飲まないのは、既に聖霊で酩酊しており、もし聖霊以下の何かで酩酊するならば、それは神の愛を裏切ることだと自覚しているからです。
酒なんか飲まなくても、クリスチャン生活は十分に自由で楽しいのです。
二日酔いというリスクのない、本当の自由を謳歌する極上の酩酊生活が、クリスチャンの人生にはあります。
「飲まない自由もあるよね」
と私はそっとキンキンに冷えた缶ビールを冷蔵庫に戻すのでした。
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