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イブキちゃんの聖書入門#63 「クリスチャンは酒飲まない?②」

"それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。"
ヨハネの福音書 2章1~11節

⭐︎私はクリスチャンになって以来、あまりお酒を飲まなくなりました。

「クリスチャンは飲酒はNGなの?」

という質問が来るかと思いますが、決して、そんなことはありません。

聖書には「一滴も酒を飲んではならない」とは書いていません。

そもそもクリスチャンは定期的に教会に集い、イエス・キリストの十字架での犠牲、つまりキリストの裂かれた体、流された血を覚える為に、イースト菌で膨らませていないパンと共にぶどう酒を口にする聖餐式(教会によっては「パン裂き」とも呼ばれます)を執り行うことが新約聖書の中で命じられています。
(もっとも最近の教会では、飲酒運転防止などの観点から、ぶどう酒ではなくグレープジュースで代用するケースが増えていますが)。

"私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
食事の後、同じように杯(ぶどう酒)を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。"
コリント人への手紙 第一 11章23~26節

またぶどう酒は聖書的には喜びの象徴です。

"主は家畜のために草をまた人が労して得る作物を生えさせます。地から食物を生じさせてくださいます。
ぶどう酒は人の心を喜ばせパンは人の心を支えます。油よりも顔をつややかにするために。"
詩篇 104篇14~15節

また冒頭で紹介した聖書箇所は、『カナの婚礼』と言われる場面で、そこではイエスご自身が水をぶどう酒に変えました。

もし酒(また飲酒)が罪であったなら、神であるイエスはそのようなことはしないでしょう。
むしろ母マリヤをはじめ、宴席にいた人々を叱責していたのではないでしょうか。

酒そのものは罪ではないのです。

ただ酒に溺れる、酒が偶像化してしまう危険性について聖書は戒めており、「酒に酔うのではなく聖霊に酔いなさい」と聖書はクリスチャンに命じています。

聖霊とは「神の霊」であり、「イエス・キリストの福音:恵みの福音」を信じた者には全員、無償で与えられます。

この聖霊による「酔い」は、この世のいかなる酒による酔いよりも喜びに溢れた上等、上質なものです。

私は本来、お酒は好きな方です。

しかし、聖霊が注がれクリスチャンへと変えられてからは、自然と飲酒から身を引くようになりました。

もし救いの喜びを持っている真のクリスチャンの中で、私のように酒を飲まないクリスチャンがいるのでしたら、その人は我慢しているのではありません。

「既に聖霊に酔ってる:わざわざアルコールで酔う必要性を感じられない」から飲まないのです。

飲まなくてもクリスチャンライフは十分に楽しいのです。

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