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イブキちゃんの聖書入門#18 「個人的終末論① 人は死んだらどうなるの?」

イブキちゃんの聖書入門18
"ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」"
ルカの福音書 16章19~31節


★個人的終末論

⭐︎今回から数回にわたり、「個人的終末論」についてお話をしたいと思います。
「個人的終末論」とは、「個人」に関わる「終末論」、つまり「人は死んだらどうなるか」について聖書から導き出そうとする神学の分野です。

「個人」が付かない、ただの「終末論」もあります。
それは「この世(今の時代)の終わりに一体何が起こるのか」について言及をする領域です。
「終末論」は主に預言解釈にまつわる分野で、ある意味非常にセンセーショナルな部分も含まれているので、ご興味を持たれる方も多いかと思います。
なので、また機会を作り、いつかがっちりと終末論に関する記事も作成してみたいと思います。

まずこの「個人的終末論」の第1回目は、最も基本的な質問から、「人は死んだらどうなるのか?」について、聖書の「金持ちとラザロの話」から解説をしてみたいと思います。

⭐︎「死」は全ての人に訪れる不可避なものであるにも関わらず、殆どの人は「自分がいつか死ぬ」ということに対してあまりリアリティを持っていません。
今日の命は明日も問題なく続く、と考えてしまう傾向が強いです。
もちろん「自分にも死は訪れるだろう」という認識は持っていますが、あくまで「死」は他人に起こること、いわば「他人事」です。
よほどのことがない限り、「死」を「自分事」として捉えることは実際のところ難しいのではないでしょうか。

「死」に対してリアリティがない。
故に「死んだ後に自分は一体どうなるのか?」と問うことが日常殆どない、「死んだ後のことなんか考えてどうするの?」という思考についつい陥ってしまう。
下手に「死」について向き合おうとすると「宗教的な人(どこか危ない人)」だと思われてしまう…。
実際に私(大城TED)も、クリスチャンになったばかりの頃、クリスチャンではない友人に死後の裁きのこと、救いのことを伝えたら、「そんなことを考えるのは無意味で馬鹿らしい。人生はテレビを見て楽しい、美味しいものを食べて美味しいと喜ぶだけで十分じゃないか」と反発されました。
…つまりそういう経緯によって、「死んだら無になる」という、とりあえずの無神論風味の結論でお茶を濁すのが、現代日本においてある一定の市民権を得ていると私は見ています。

しかし聖書は「人の霊、魂は永遠不滅である。肉体的に死んだ後もあなたはあなたであり、永遠に生きる」と教えています。
聖書は人が死んだ後、実際にどのような状態になるかを包み隠さずに描いています。

であるならば、知りたくはありませんか?

聖書というオプションがない故に、「死んだ後に無になる」と心半分で思っているだけで、実のところ、「天国がある。何らかの死後の世界がある」と信じている日本人は意外と多いはずですから。


★金持ちとラザロ

"ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。"
ルカの福音書 16章19~21節


⭐︎「金持ちとラザロの話」
これはイエス・キリストが、イエスを快く思わないユダヤ教のグループであるパリサイ派の人たちに対して語った実話です。
(ユダヤ人の伝統では話の中で具体的な名前(この場合はラザロ)が出てきたのなら、それは寓話ではなく実話である、ということです)。

この金持ちもラザロも共にユダヤ人で、金持ちの方は当時のユダヤ教パリサイ派の基準から見れば、「神から祝福された義なる人」です。
ここでの「義なる人」とは、「来るべき神の国(天国)でも高い地位に就ける人」という意味です。

「来るべき神の国」とは旧約聖書で預言されていた、イスラエルのメシアが統治する地上の王国(メシア的王国)のことで、昔も今も、ユダヤ人はその「メシア的王国」の実現を待ち望んでいます。
ですので、ユダヤ人ではない私たちがイメージする、いわゆる「天国(天上にあるパラダイス)」とはニュアンスが相当違いますが、「今の地上とは異なる神が支配される楽園」という意味で、便宜上、「来るべき神の国(メシア的王国)」を「天国」と表記しておきます。

当時のユダヤ教では、基本的にユダヤ人(アブラハムの子孫)であれば、それだけで救われている、神の国(天国)に入れる、と考えられていました。
問題はその天国でいかに高い地位に就けるか、であり、それには「神から祝福されている:神から義と認められている」必要がある、とされていました。そのために当時のユダヤ人は口伝律法という戒律に熱心に従おうとしたのですが、その「神から祝福されている:神から義と認められている」ことの証として、「金持ちである」ということも教えられていたそうです。
金持ちであればあるほど、それは口伝律法に熱心な証拠であり、神から祝福されている、来るべき神の国(天国)でも高い地位に就くだろう、とされていました。
つまり、この金持ちはパリサイ派の人たちから見れば「尊敬すべき人」です。

一方で、その金持ちの門前でホームレス生活をしているラザロは、パリサイ派的には「見下げられるべき者」です。
貧しい生活をしているのは、結果として戒律に熱心ではなかったからだ、だから神から祝福されなかったのだ、ユダヤ人ならば天国には入れるだろうが、だとしても相当低い地位であることは間違いない、というのが、当時のパリサイ派の見解です。
できものだらけで、しまいには不浄の動物である犬になめられるとは、救いようがない、あ、犬になめられるということは、もしかしたらこのラザロは異邦人かも知れない、だとしたらラザロは確実に地獄だろう、不潔なことだ。
…とイエスの話を聞いていたパリサイ派の人たちは思ったことでしょう。

しかし、現実は違いました。
次にイエスの語ることは、彼らパリサイ派の常識を覆すものだったのです。

★死後の状態

"しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。"
ルカの福音書 16章22~23節

⭐︎ラザロが死に、また程なくして金持ちも死んで葬られました。
当然、彼ら2人は違った場所に送られました。
ただそれはパリサイ派の人たちが予想するものとは真逆だったのです。

「神から祝福された義なる人」であるはずの金持ちは、なんと「よみ(ギリシャ語ではハデス)」という「苦しみの場所」にいるのです。
金持ちは天国で高い地位に就いているどころか、その天国にも入れていないのです。

逆に、祝福や義から遠いはずの「見下げられるべき者」であるはずのラザロが「アブラハムの懐」という「安らぎの場所」にいます。
「アブラハム」とは、ユダヤ人の先祖の名前で、ユダヤ人が尊敬してやまない人物です。
死んだ後にその「アブラハムの懐」にいる、というのは、子供が父親に大切に抱かれるようなものであり、ユダヤ人であればその場所が、いわゆる「死後の楽園(パラダイス)」である、祝福された場所である、ということは明確にわかります。

つまり、ここで今回のテーマに沿って強調したいのは、ラザロも金持ちも、肉体の死後、その霊は消滅しなかった、無にはならなかった、ということです。
「安らぎの場所」か「苦しみの場所」か、という違いはありますが、ラザロはラザロとして、金持ちは金持ちとして、視覚や聴覚、更には痛覚や地上での記憶と自意識を持って生き続けるのです。
この記述で、「死んだら無になる:霊魂消滅説」また「輪廻転生説」は完全に否定されます。

人は死んだらどうなるのか?
…あなたはあなたとして、永遠に生きるのです。

★金持ちが救われなかった理由

⭐︎もう少し、この金持ちとラザロの記述から、死後の状態について考えてみましょう。
何故、ラザロは「安らぎの場所」に行けて、金持ちは「苦しみの場所」に送られたのでしょうか?

「神は貧乏人を憐れみ、金持ちを憎まれたから」。

…という単純なものではないことは、何となくわかって頂けているかと思います。

ラザロは貧乏の故に救われ、金持ちは金持ちの故に救いから漏れた訳ではありません。
聖書の救いの構造は常に、「それまでに啓示された神の言葉に信頼するかどうか」にかかっています。
「それまでに啓示された神の言葉」とは、今の新約時代であれば「イエス・キリストの福音」であり、この金持ちとラザロの時代であれば、新約聖書が書かれる以前の時代なので、「モーセと預言者(旧約聖書の総体)」になります。
つまり、金持ちとラザロが生きていた時代では、モーセの律法と預言者を通して語られた神の言葉に信頼することが、救いを得る(死後に「安らぎの場所」に行ける)条件だったのです。

この金持ちの、僅かにですが、記録されている行動を見ると、どうやら「モーセと預言者」に耳を貸すような信仰はなく、モーセの律法の中心である弱者、また隣人への愛に欠如していたことがわかります。
行いによって人は救われませんが、しかしその人の信仰は目に見える行いによって体現されるものです。
もしかしたら口伝律法の戒律には忠実な面もあったかも知れませんが、それは霊の救いとは全く関係のないことであり、結果として「苦しみの場所」に送られたところを見ると、この金持ちは、パリサイ派が考えているような「義なる人」でも「神から祝福された人」でもなかったのです。
この金持ちは、ただたまたまお金を持っていただけの「不信仰な人物」であり、神の言葉に対する信頼がなかった故に救いから漏れたのです。

対してラザロは貧しくても、結果として「安らぎの場所」に入れたので、「モーセと預言者」への信頼があった、と言うことが出来ます。
貧しくても、金持ちであっても、神の言葉への信頼がなければ救われませんし、信頼があれば救われます。
ユダヤ人か、そうでないか。または金持ちであるか、そうでないか。
それら人間が作り出した基準によって、死後の状態が決まるのではないのです。

そのことを示すために、イエスは敵対するパリサイ派の人たちに対してこの実話を話されたと考えられます。

★あなたはどこで永遠の時を過ごすか?

⭐︎このように聖書は死後の状態について、明確に示しています。
私たち人間の霊は、肉体の死後も消滅することなく、永遠に続くのです。

問題は、その永遠の時をどこで過ごすか、です。
そこを聖書は私たち一人一人に問うています。

「永遠の平安」か。
それとも「永遠の苦しみ」か。

「永遠の平安」を求めるのであれば、「イエス・キリストの福音」を信じる以外に他に道はありません。
人は神が用意された道以外に、救いを得る手段はないのです。

「イエス・キリストの福音」とは…、

1:人となられた神、罪が一切ないイエス・キリストが、あなたの罪の身代わりとなって、十字架刑によって死なれたこと。
2:イエスは墓に葬られた、ということ。
3:しかし神は死では終わらず、預言の通りに3日目に墓から復活された、ということ。

⭐︎私たちはいずれ確実に肉体の死を迎えます。それは宗教でも哲学でも何でもなく、揺るぎのない事実です。
故に、「死後の状態」について考えることは無意味なことであるどころか、最も現実的なことであり、意味のあることであり、貴重なことであると私は考えます。
人の命はこの地上の生活で終わるのではなく、むしろ、この地上を去った後の「永遠の時」からが本番なのだと聖書は語っているのですから。

次回は「地獄の存在」について解説してみたいと思います。

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