イブキちゃんの聖書入門 #10「多様性と一致の12使徒」
「そして、夜が明けると(イエスは)弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。」
(ルカの福音書 6章13節)
⭐︎はっきり言って、一般的な日本人が持っている「宗教」のイメージは良くありません。
「宗教」と聞けば、どこか人を不自由にするような、没個性にさせてしまうような、何かネガティブなイメージを多くの人は持ってしまっているのではないかと思います。
確かにそれは一部では当たっています。
イスラム原理主義者や、以前にとあるカルト団体が行ったようなテロ行為は実行していないにしても、怪しげな宗教団体は多くあります(特にキリスト教の名を語る宗教団体に多く見られます)。
それらの団体に属する信者さんたちは、特徴として、その服装、佇まい、笑顔の作り方に至るまで、何から何までも判で押したかのように統一されており、得も言えぬ不自然さを漂わせています。
しかしそれはあくまでカルト的な宗教が持っている「特殊な暗黒面」であって、全ての「宗教とされるもの」に当てはまる訳ではないと思います。
少なくとも、聖書に書かれてあることを正しく解釈し、イエス・キリストに信頼を置く信仰に対しては、それは適用されません。
何故なら、聖書の神は、私たちの目に映るこの個性豊かな世界の造り主であるからです。
神でありながら人となられたイエス・キリストは、人間一人一人の命はもちろん、個性やそれぞれの多様性、自律性を尊重されておられることを聖書が証言しているのです。
⭐︎上にご紹介した聖書箇所は、イエス・キリストが70人ほどいた弟子たちの中から、かの有名な十二使徒を選抜するシーンを描写しています。
「使徒」とは「遣わされた者」という意味があり、キリストの代理人として、キリストの権威をもって、各地に宣教する使命が与えられた特殊な者たちのことを指します。
(ちなみにこの「使徒職」が有効であったのは新約聖書が完成する紀元90年代ごろまでの間だけであり、それ以降は使徒と呼ばれる者は存在しません。キリストからの直接的な権威の付与がなければ、いかなる人も使徒とは呼ばれないのです)。
使徒として選抜された者たちは、どれも個性豊かな、クセのある、いわゆる「聖人」とは程遠い、実に人間味のある不完全な面々でした。
★その十二使徒を簡単にご紹介いたします。
1:ペテロ ‥‥ 十二使徒の筆頭格。本名はヨハネの子シモン。ペテロは「岩」という意味。田舎で漁師を生業としていた。率直で武骨。直情型。イエス大好きだが、イエスが逮捕された際に、「自分はイエスを知らない」と三度もイエスとの関係を否定する。しかし、死から復活したイエスと出会い、その傷が癒される。初代教会のリーダーとして大いに活躍し、最期はローマ皇帝ネロの迫害によって殉教の死を遂げた。
2:ヨハネ ‥‥ ペテロと同じく、ガリラヤ地方という田舎で漁師として生計を立てていた。かなり血気盛んなところがあり、そのことでイエスから叱られていた。使徒集団の中では唯一、殉教せずに生き残り、高齢になってからパトモス島に流刑となった。ヨハネはそこでキリストから啓示を受け、かの有名な『ヨハネの黙示録』を執筆する。
3:ヤコブ ‥‥ ヨハネの兄。ヨハネと同じく、ガリラヤの漁師であり、かなりやんちゃだったらしい。使徒集団の中で、最初の殉教者となる。
4:アンデレ ‥‥ ペテロの弟。ペテロと同じく、ガリラヤの漁師。しかし性格はペテロとは違い、結構控え目であったようである。伝承によれば、最期はX型の十字架にかけられて殉教の死を遂げたとされている。
5:ピリポ ‥‥ ペテロたちと同じく、ガリラヤ地方出身。恐らく漁師。理性的で数字に強い。最期はヒエラポリスという町で、家族とともに殉教の死を遂げたとされている。
6:ナタナエル ‥‥ ガリラヤのカナ出身であり、恐らく漁師。ピリポの友達。別名バルトロマイ。聖書(旧約聖書)に精通しており、勉強熱心。皮肉屋でもある。最期はアルメニアで逮捕され、殉教したとされている。
7:マタイ ‥‥ 元取税人。取税人とは、ローマ帝国の庇護の元で同胞のユダヤ人からあらゆる理由でお金をむしり取る仕事をしていた者のことである。そのような日陰者の人生に浸り、抜け出せなくなっている時に、マタイはイエスと出会い、イエスの「ついて来なさい」の一声で何もかも捨ててイエスの弟子となった。彼は後に新約聖書の最初の書である『マタイの福音書』を執筆する。最期はヒエラポリスで殉教したとされている。
8:トマス ‥‥ 「トマス」とはアラム語(当時の中東地方の公用語)で「双子」という意味があり、デドモ(ギリシャ語で「双子」)とも呼ばれていた。かなり悲観的で疑り深い。イエスが死から復活し、使徒集団の前に現れた時、何故かトマスだけが居合わせなかった。それで他の使徒たちの証言を信じず、「自分は実際に触って確かめなければ絶対に信じない」と豪語した。その後に彼の前に復活したイエスが現れ、目で見てイエスの復活を受け入れた。その後、トマスはこのキリストの福音をインドまで伝えに行き、最期はその地の異教徒によって剣で五体切断されて殉教したとされている。
9:アルパヨの子ヤコブ ‥‥ 父親がアルパヨで、タダイのユダが兄弟である以外に、これと言った情報が聖書の中にはない。しかし、目に見える情報量の多寡が信仰者の質を決めるのではない。隠れたところで、堅実に他の信者たちを支え続けたのだろう。マリヤから産まれたイエスの兄弟、ヤコブとは別人である。
10:熱心党員シモン ‥‥ 熱心党とは当時ユダヤ地方を支配していたローマ帝国に反発する過激派国粋主義集団である。シモンは元々その一員であり、イエスと出会ってからはその熱心さを信仰に傾けた。最期はペルシャで殉教したとされている。
11:タダイのユダ ‥‥ タダイとは「獅子の心」という意味がある。イスカリオテのユダと混同しないために、聖書では彼を他に「イスカリオテでないユダ」、または「ヤコブの兄弟ユダ」とも呼んでいる。アルパヨの子ヤコブとは兄弟である。新約聖書の『ユダの手紙』の著者である。最期は小アジアのエデッサにて殉教したとされている。
12:イスカリオテのユダ ‥‥ 「イスカリオテ」とは「カリオテ出身の人」という意味があり、ガリラヤ地方という田舎出身の使徒が多かった中にあって、洗練された都会人であったことが伺える。イスカリオテ・ユダは使徒集団の財政係であったが、預かっていた財布から習慣的に金を盗んでいたらしい。彼は結局、イエスよりも金銭を愛しており、遂にイエスを銀貨30枚でイエスに敵対する者たちに売ってしまう。この裏切り行為によって自責の念に圧し潰された彼は、儲けた銀貨を投げ捨てて首を吊って自殺する。彼の後悔は、魂の救いに繋がる悔い改めとはならなかった。
⭐︎聖書の神は多様性を愛されるお方であり、多様性を認めるからこそ、真の一致が生まれることも知っておられるお方です。
聖書の神は私たち人間一人一人が、神に造られた通りの姿で、個性的に生き、他者との違いを認め、福音を信じキリストと共に人生を歩むことを望んでおられます。
それはこの十二使徒の選抜にも表わされているのです。
またそのことは何よりも、聖書の神ご自身が、「三位一体の神」であられることに由来しています。
次回はその聖書の神の属性である「三位一体」について、ご紹介致します。