イブキちゃんの聖書入門#38 「ノアの箱舟は本当にあったの?⑤ ノアの伝道」
★変なおじさん
⭐︎前回までは、悪霊(堕天使)と人間の間に生まれた超人、ネフィリムの存在が、世界規模の大洪水の原因となった、ということを説明しました。
今回から聖書に記録されているノアという人物そのものに焦点を当て、聖書信仰の普遍性について掘り下げてみたいと思います。
⭐︎ノアという人物は、彼が生きていた時代にあって、一言で言えば「変なおじさん」でした。
ネフィリムという悪を行う超人がスターのようにもてはやされ、人々の思いが常に神に反逆する想いに傾く中で、ノアは1人、神を信じ、神を見上げ、神に言われた通りに箱舟を造っていたのです。
ノアは人々の嘲笑の的でしたが、しかしこれはノアと同じ神を信じる信仰を持つクリスチャンにも同様のことが言えます。
「魂の生まれ変わりを経験した本物のクリスチャン」であれば、必然的にこの世の多くの人々にとって「変な人たち」として扱われてしまうのです。
クリスチャンとして生きる、ということは「この世から取り分けられる」ということであり、同時に「この世の不理解と対峙する」ということでもあります。
⭐︎クリスチャンになって間もなくの頃、私(大城TED)は救われた喜びから、この聖書の神様をどうにか伝えたくて、友人たちにとにかく伝道ていた時期がありました。
今にして思えば、やや強引なところはあったのかも知れませんが、しかし聖書が語ることを伝える範疇においては間違ったことは言ってはいない自信はありましたし、常識的な礼節は守っていたつもりでした。
それでも、その中の友人の1人から、「狂っている」と言われました。
「神とかいう目に見えない架空の存在に感謝したり祈ったりとか、狂気の沙汰だ。人生は、美味しいものを食べて『美味しい』と感動したり、人並み以上の生活ができて幸せだと感じるだけで十分じゃないか」と。
私はその友人のその言葉、意見に愕然としてしまいました。
美味しい食べ物を食べて感動できるのも、生活が守られているのも、全て創造者である神の恵みの故であり、その神に感謝を捧げるのはそんなに狂ったことなのか?
むしろその神を無視する方が不合理な、狂っていることではないのか?
そもそも、そういう意見はとりあえずの平和が守られている現代日本の中で生きているから言えることで、今日食べるものもない、明日の命がどうなっているのかわからない、人の努力の限界を思い知らされる逼迫した状況の中にいる人々にとって、果たして通用するリアリティのある普遍的なことなのだろうか?
…様々な反論が頭を駆け巡り、どうにか彼を言い負かし、その思い違いを正してやろうといきり立ちましたが、不思議と直ぐに冷静になることが出来ました。
「彼はそういう『神を無視する教』の頑固な信者に過ぎないんだ」と割り切り、それ以上は無理に議論を進めることは止めました。
例え論破したところで、それは彼を神に近づけることにはならないと直感的に悟ったです。
そしてただ、神の恵みによって彼の目が開かれるように、そのように祈りました。
この時、小さなスケールではありますが、私は確かにその時、同じ信仰の大先輩であるノアや、もっと言えば「信仰の完成者」であるイエス・キリストが受けた「この世からの不理解、嘲り」、そしてそのような暗黒を凌駕し葬り去って余りある神の恵み、不思議な神の力を体験したのです。
もっとも、私はその友人や神を知らない周囲の人々にとって、恐らく未だに「変な奴」であることには変わりはないと思われるのですが。
★伝道者ノア
⭐︎ノアは「箱舟を造った」という行動実績のみがクローズアップされがちですが、聖書の視点から見れば、ノアの信仰者として評価されるべきポイントは「伝道者として生きた」というところにあります。
つまり、ノアは「来るべき神の裁きとそこから救われる神の唯一の方法」を、当然のように神を無視して生きている人々に対して、行動をもって、言葉をもって、伝えていたのです。
そのノアの姿は、まさに、彼の生きていた時代から約5,000年経った今の時代に生きる私たち、キリストの福音を宣べ伝えるべきクリスチャンの原点であり模範です。
新約聖書の「ヘブル人への手紙」には、クリスチャンが手本とすべき旧約聖書に登場した信仰の勇士たちのリストが出て来ますが、その中でノアについて以下のように書かれています。
⭐︎「まだ見ていない事柄」とは、「洪水」のことです。
ノアの時代の地球環境は現在とは違い、大地の全面は湧水によって潤い、大気には水蒸気の膜が覆い、雨は降らず、温室効果で地球全体が温暖で快適な状態でした。
(↓詳しくは以下を参照)
ノアを始め、その当時の人々は誰1人として、洪水はおろか、雨の存在すらも知らなかったのです。
しかし、その中にあって、ノアはある時に神から「大洪水によってこの世界は滅ぶ」との言葉を受けたのです。
雨すらも見たことがなかったノアにとっては、「洪水?天から大水が落ちて来る?どういうことだろう」と思ったに違いないと思うのですが、しかし彼は自分の感覚や経験則に従うのではなく、ただ信仰によって「神がそう言われたのだから」と受け取り、信じ、神が言われた通りに箱舟を造ったのでした。
聖書が語る「信仰」というものは、個人的な思い込みではなく、感情的なものではなく、抽象的なものではなく、「啓示された神の言葉に対する信頼と応答」です。
故に、「啓示された神の言葉」(聖書の内容)に対する理解が先ずなければ、そこに信頼やそれに続く応答による行為もなく、聖書信仰というものは成り立たないのです。
ノアの時代には明文化された聖書というものは存在していなかったと思いますが、しかしノアは見事に「ただ人間に対して語られた神の言葉に信頼する、そして応答する」という根源的な聖書信仰を働かせたのです。
しかし、ノアはそうであっても、神を無視する他の大勢の人々は違います。
雨も洪水も見たことがない彼らは、「やがて大雨が降り、地が裂け水が吹き出す、大洪水による滅びが来る」と叫び、「巨大な箱型の何か」をせっせと拵えるノアを大いに嘲笑いました。
ノアの警告を徹底的に無視し続けました。
「雨だとか洪水だとか、そんなものは見たことも聞いたこともない。そんな来るはずもないものの為に、あんな箱型の奇怪な物を造っているのか。目に見えない神とかいうものの言うことを信用するなんて馬鹿げている、狂気の沙汰だ」と。
⭐︎神がノアに箱舟を造らされたことには2つの意味があります。
1つは、大洪水からノアとその家族を始め、信仰のある者たちの命を救う為。
もう1つは、それによって神の愛と正義を不信仰な世に示す為、です。
「やがて大洪水が来る」というノアの警告に耳を貸し、その言葉に信頼して箱舟に入るのであれば、誰であっても滅びから救われることは可能でした。
箱舟の入り口は、洪水が起こる直前まで、当時生きていた全ての人々に対して開かれていたのです。
ここに神の愛と恵みがあります。
しかし、結局、箱舟に入って大洪水から助かった人間は、ノアとその家族のみでした。
それによって、神の言葉に信頼しないことが罪であり、その罪は身に滅びをもたらす、ということ、また神は全ての罪を赦される一方で、ある段階を過ぎれば罪を必ず裁かれる正義なるお方であられる、ということが示されたのです。
神は愛です。
人の全ての反逆、罪に対して忍耐され、悔い改めることを待っておられます。
しかし義なるご性質の為、その忍耐が終わり、罪に対して裁きを下さなければならない時が来ます。
(もちろん、その裁きの中にあっても可能な限りの愛を示されるのですが)。
神は決して侮られて良いお方ではないことを「ノアの大洪水」を始め、聖書は至るところで教えています。
⭐︎ではノアは一体どのぐらいの期間、箱舟を造り、人々に対してやがて「大洪水の裁き」が来ること、その箱舟のみが救いの道であることを伝道していたのでしょうか?
短い期間でしょうか?
それとも長い期間でしょうか?
聖書はそれは120年間であると語っています。
「わたしの霊」とは、三位一体の第3位格の神である聖霊のことです。
聖霊は、特に新約聖書の中では明らかなのですが、人を正しい道へと導く「助け主」の働きをすると啓示されています。
しかしこのノアの時代の人々は、その「神の霊」の介入を拒否し、あまつさえ悪霊の侵入を許し、ネフィリムを誕生させ、そのような怪物をスター扱いする程までに堕落してしまっている。
当時の人々は揃いも揃って、善き者(神の霊、神の助け)を拒否していたのです。
そのような、肉に過ぎず、回帰不可能なまでに、善ではなく悪に傾くばかりの人間の死んだ霊性に対する神の嘆きを、この箇所の前半部分は現しています。
それを受けて、後半部分で、
「だから、人の齢は百二十年にしよう」
と神は宣言されたのです。
邪悪な時代の中にあっても、救いが示される期間は120年、つまりノアの伝道は120年間で、裁きはそれまでは忍耐しよう、という神の精一杯の憐れみが、ここで示されています。
ノアは120年間もの間、人々に対して警告をし続けていました。
なのに、誰1人としてノアの語ることに耳を傾ける者はいなかったのです。
ノアはずっと孤独で悔しい、苦しい思いをしたはずですが、しかしそれでも彼の心が折れなかったのは、ひとえに神の恵みであったと思います。
★現代の箱舟
⭐︎現代に生きる私たちクリスチャンも、救いに至る「福音」の内容こそ違えど、ノアと同じ「神の言葉」を人々に伝える伝道者としての使命を持っています。
ノアはその時の人々に対して、箱舟を造ることによって「大洪水による裁きがやがて来る」と警告しました。
クリスチャンも、完成された神の啓示の書である聖書を根拠に「火による裁きがやがて来る」とこの世界に対して警告します。
「火で焼かれる」(火による裁き)とは、専門的には、やがて将来起こると預言されている「7年間の患難時代」の裁きのことです。
水によるこの世界への裁きは既に終わり、次は火による裁きが待ち構えています。
ノアの時代と、今の時代(終末時代)はあらゆる面において相関関係(相似関係)にあるのです。
繰り返しますが、神は完璧なる正義のお方であり、いかなる罪も必ず裁かれます。
その裁きから救われる為にも、ノアは神に言われた通りの設計で箱舟を造りました。
今、箱舟に入るのであれば、大洪水の裁きからは救われる、とノアは人々を招きました。
それと同じように、私たちクリスチャンも、聖書に示された「イエス・キリストの福音」を人々に宣べ伝えています。
「イエス・キリストの福音」こそ、現代の「ノアの箱舟」です。
「イエス・キリストの福音」を信じ、受け入れた人は誰でもやがて訪れる「火による裁き」(7年間の患難時代)から救われるのです。
またそれは究極的には、「最終的な地獄」(火の池)に行くことから救われることも意味しています。
⭐︎「イエス・キリストの福音」とは、
1:罪のない神であるイエス・キリストがあなたの罪を負って十字架につき、あなたの罪の裁きを代わりに受けて死なれた、あなたの罪はキリストが既に精算された、ということ。
2:十字架で死なれたキリストは墓に葬られた、あなたの罪は既に墓に葬られた、ということ。
3:しかし神は死では終わらず、キリストは3日後に復活された、ということ。
聖書の神は不変なるお方です。
ノアの時代に世界の罪を洪水によって裁いたお方は、やがて確実に今の時代の罪も裁き、またノアの時代にノアという信仰者を用いて「箱舟」という救いの道を示されたお方は、同様に、今の時代においても、クリスチャンを用いて「イエス・キリストの福音を信じる」という救いの道を整えておられます。
神は全ての人をご自身のもとに招いておられます。
どうか今、あなたも、その神が用意された「現代のノアの箱舟」である「イエス・キリストの福音」を信じ、神の確かな守りの中を生きる喜びを味わってみませんか。
心よりお勧めいたします。