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イブキちゃんの聖書入門#20 「個人的終末論③ 死者の場所(前編)」
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"また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。"
ヨハネの黙示録 20章11~15節
"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。"
ヨハネの黙示録 21章1~2節
★普遍的な問い
⭐︎「人は死んだらどうなるのか?」
それは人類が普遍的に持ち続けて来た関心事の一つであり、故にその渇きに近い問い掛けから、これまで実に多くの宗教、哲学、思想、文芸作品が生まれて来ました。
「宇宙を知りたい」「人類、生命体の起源を知りたい」ということに端を発する科学的営みも、実のところ、その欲求の源を遡れば、この文学的とも言える探究心に行き着くのではないでしょうか。
霊的なものの存在、死後の世界を一切否定する無神論も、ある意味で、この問い掛けのアンチテーゼとして生まれて来た、と言えます。
「神なき、霊的なものなき世界」を信じる「信仰(無神論者の方はこの単語を嫌うでしょうが…)」も、実際に神や霊的な世界が存在するから成立するものです。
もし神や霊的なものが、無神論者の方々が信じているように「初めから存在しない実態のないもの」だとしたら、そもそもそこまで心血注いで否定する必要はないからです。
このように、探求するにしても、そこから目を背けようとするにしても、どちらにしても人類は、「自分が死んだらどうなるのか」の問い掛けから自由になることはありませんでした。
一種の呪怨のように、自ら引き寄せられるようにして、ある時は自覚的に、ある時は無自覚に、それに振り回されて来たのです。
いつの時代のどのような人にとっても、「死」は、得体の知れない透明な巨大な怪物です。
確実に自分の身にも、全ての人の身にも起こるにも関わらず、知りたくても、知ることが出来ない、見たくても、見ることが出来ない、どうしようにも拭い得ない恐怖感、不安感を絶え間なく与えてくるのです。
これまでに人類は、いくら深い哲学的洞察を行っても、修行や瞑想を行っても、またいくら最新鋭の技術を使って宇宙を調べても、無理でした。
「人は死んだらどうなるのか?」
私たち人類は一向に、どこにも、その原初的な問いに対する解答を発見することは出来なかったのです。
聖書を除いては。
⭐︎聖書はこの宇宙、世界を創造された神が、私たち人類に対して送られた、「神による啓示の書」です。
いわば「宇宙の取り扱いマニュアル」です。
私たちが何か製品を買って、それにわからないことや不具合が生じたら、その取り扱い説明書を見るか、メーカーに問い合わせます。
それはメーカー(製品の作り手)であれば、その製品のことを詳しく知っている、正しい対処法を知っているのは当然だと理解しているからです。
それと同じように、もし「死後の世界がわからない」のであれば、死後の世界すらも創造された方、聖書の神が書かれた「宇宙の取り扱いマニュアル」である聖書を開けば良いのです。
この宇宙を全て一から形造られた存在であれば、当然、霊的な世界の全てをも熟知しています。
逆に言えば、宇宙のメーカーである聖書の神以外に、この「神によって造られたもの」である宇宙の真実を知っている存在はいないのです。
聖書は「わかり切っていることが書いてある道徳の本や人生哲学の本」などではありません。
聖書には、人間の知恵や努力によっては決して知り得ないことが書かれています。
聖書抜きに、人は宇宙の真実を知ることは絶対にないのです。
⭐︎さて、「個人的終末論」の第3回目です。
(↓第1回目の記事)
(↓第2回目の記事)
今回から、聖書が語る「死者の場所」について、前編・後編と分けて、じっくりと考えてみたいと思います。
⭐︎13種類。
この数字は、聖書的に「死者の場所」を表現する用語の数です。
13種類もの用語を使って、聖書は「死者の場所」について説明をしています。
その中に、いわゆる「天国と地獄」と呼ばれる存在が含まれています。
これからご紹介するその13種類の中には、伝統的なカトリック教会で信じられて来たもの(「煉獄」や「辺獄」など)は含まれてはいません。
なので、キリスト教について、カトリックサイドから学ばれた方は違和感を覚えられるかも知れませんが、私はあくまでプロテスタントの福音派の立場から、「聖書が何を語っているのか」を元に考察をしていますので、その辺りのことをご了承ください。
具体性のある「死者の場所」の理解を通して、聖書の神の真実性、愛と恵みの深さ、きよさをお伝えすることができれば、と願っております。
★始めに:「天国」「地獄」という言葉について
⭐︎様々な娯楽作品のタイトルにもなることがある「天国と地獄」ですが、正直、この両者は共に、聖書的には中々一言では説明が出来ない、かなり複雑なものです。
例えば、「地獄」という単語ですが、それはそのまま英語の「Hell」と訳すことができると思います。
「Hell」はチュートン系(ゲルマン系民族)の語源を持ち、「隠す、覆う」という意味があります。
実はそのまま「Hell」に該当する言葉は、聖書の原語であるヘブライ語、ギリシャ語にはなく、恐らく、聖書の教えが中東からヨーロッパを経由していく過程で、異教的な概念で「冥府」を表していた「Hell」が、「罪人が死後に苦しむ場所」の総称として、キリスト教においても採用されたのでは、と思います。
当然、「天国」においても同様なことが起こり、聖書の記述からは程遠い、ヨーロッパ由来の異教的なパラダイス観がキリスト教に組み込まれてしまったと思います。
つまり、旧約聖書の民であるユダヤ人は、ユダヤ人ではない私たち(非ユダヤ人は聖書的には『異邦人』と呼ばれる)のように、「死後に安らぐ場所:苦しむ場所」を大雑把に「天国:地獄」と呼んで済ませてしまうのではなく、異教的な先入観を一切持たず、神が啓示されたままに「よみの世界」を捉え、事細かに、その場所を示すのに相応しい言語を用いて、使い分けていたと考えられます。
それ故に、「死者の場所」を示すものとして、13種類もの言葉が聖書に記されているのでしょう。
少なくとも、聖書の記述から明らかですが、2000年前のイエス・キリスト時代のユダヤ人たちはそのように、「よみの世界」と向き合っていました。
その伝統を持つユダヤ人たちが新約聖書をも執筆したのです(真の著者は神ですが)。
もちろん、英語や日本語に聖書が訳される際に、「地獄(Hell)」や「パラダイス」という単語は使われたりしますが、その原語にあるユダヤ的な意味までは抽出できていないことが殆どであり、その字面だけでは私たち異邦人が思い描くものと相当食い違う、ということです。
⭐︎聖書はあくまでユダヤ人を通して、ユダヤの文化を背景に書かれたものです。
「当時のユダヤ文化を踏まえた上での聖書理解」と、それを抜きにした「現代の異邦人である自分に引き寄せた聖書理解」では、相当の温度差があり、そこには多くの誤解が生じる可能性があります。
「天国と地獄」の概念の食い違い、程度であれば、まだ被害は少ないのかも知れませんが、時に、霊の救いに関する致命的な理解の過ちを犯し、最悪、人を神から遠ざけてしまうこともあり得ます。
(中世ヨーロッパに行なわれた『贖宥状』(いわゆる免罪符)の配布などが、それに当たると思います)。
このことだけでも踏まえることができるのであれば、聖書の記述を誤解した故の、不要な苦しみや怖れ、迷いを身に受けることは減りますし、聖書が一体何を語っているのか、より明快になるのではないか、と思います。
★1:シオール 〜シオールの概要〜
"彼(ヤコブ)の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみ(シオール)に下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。"
創世記 37章35節
⭐︎13種類ある「死者の場所」を表す用語の1つ目は、「シオール」です。
「シオール」はヘブライ語で「よみ:死者が行く場所」であり、ギリシャ語では「ハデス(広義)」と訳されています。
上記の創世記の記述は、今から約4000年程前のものですが、このヤコブの言葉からもわかるように、「シオール」は「地下に下った先にある世界」である、と認識されていました。
そしてその地球の地下世界にある「シオール」は、そこは「罪人、不信仰者のみが苦しむ場所」ではなく、「義なる人、信仰者も送られる安らぎと癒しの場所」であることがわかります。
アブラハムの孫であるヤコブは、その祖父と同じく、創造主である神を礼拝する、義なる人、信仰者だからです。
つまり、このヤコブが生きていた時代(旧約聖書の時代)の「シオール」は、「信仰者も不信仰者も、共に肉体の死後に送られる場所である」ということです。
⭐︎しかし、前回の「金持ちとラザロ」の説明でも紹介したように、この「シオール」の中には信仰者と不信仰者を分ける大きな淵、隔たりがあります。
シオールには「決して越えられない大きな淵」で隔てられた「場所」が2つあり、片方の場所には信仰者たちが、もう片方の場所には不信仰者たちが入れられています。
そして、その不信仰者たちが入れられる「悪い場所」には、更に3つの「異なったレベル(スペース)」があります。
その3つとは…
「ハデス(狭義)」「アビス」「タータラス」
です。
何故、3つも異なったレベルが用意されているのか、というと、この「悪い場所」に送られるのは人間だけではないからです。
堕天使(悪霊)もそこに送られます。
その者が人間であるか、また堕天使であるか、また堕天使でもどのような種類の堕天使なのかで、3つのうちでも勾留される場所が異なって来るのです。
人間の不信者が送られる場所は「ハデス(狭義)」です。
「金持ちとラザロ」の話では、金持ちが死後に送られた場所が、この「ハデス(狭義)」です。
一方で、堕天使(悪霊)であれば「アビス」か「タータラス」に送られます。
(これらの単語は漫画やゲームなどによく登場するので、その名前だけなら聞き慣れている方も多いかも知れませんね)。
★変化するシオール
⭐︎しかし、「シオール」のこの形状は永遠に続く訳ではありません。
旧約時代と新約時代で、もっと厳密に言えば、死から復活されたキリストが昇天される以前と以後では、その有様は大きく変化します。
"そのため、こう言われています。「彼(キリスト)はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」
「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。
この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。"
エペソ人への手紙 4章8~10節
ここでの「捕虜」とは、シオールの中の「良い場所(パラダイス)」にいる神の信仰者たちです。
アブラハムやダビデやモーセ、ヤコブ、ラザロたちが、その「捕虜」の中に含まれています。
キリストは十字架刑によって肉体的に死なれた後、シオールの「良い場所(パラダイス)」に行き、復活を経て天に戻られる際に、彼ら「捕虜」を引き連れて昇天されたのです。
つまり、キリストの昇天以降は、シオールの「良い場所(パラダイス)」の部分は空となり、今は「悪い場所」のみが残っている状態である、ということです。
シオールから消えてしまったパラダイスは、キリストと共に、神が臨在される「第3の天」まで引き上げられて、今はいわゆる「天国」として「目に見えない天空の空間:第3の天」に存在しています。
それ故に、今の新約時代においては、信仰者は肉体的に死ねば、文字通りその霊は直ちに「天」に昇り、「天国」で安らぐのです。
そして将来、千年王国が終わり、神の御手によって宇宙の全てが造り替えられ「新天新地」が現れると、「パラダイス」はそのままそこに移行します。
一方で、地下世界シオールに残された「悪い場所」は、キリスト昇天以降も依然として不信仰者、堕天使(悪霊)の勾留の場所として機能し、千年王国の終わりに全ての不信仰者を裁く「白き御座の裁き」が行なわれた後に、最終的な「苦しみの場所」である「ゲヘナ(火の池)」にそのまま投げ込まれます。
それが冒頭の聖書箇所で描写している姿なのです。
"また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。"
ヨハネの黙示録 20章11~15節
"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。"
ヨハネの黙示録 21章1~2節
⭐︎「信仰者の場所」と「不信仰者の場所」が辿る運命には、まさに天と地ほどの違いがあります。
あなたはどちらの場所に行きたいですか?
「信仰者の場所」に行き、永遠の平安を得たいのであれば、「イエス・キリストの福音」を信じる以外に、他に方法はありません。
⭐︎…結局、今回は前編と言いながら、13種類の内の1つしか取り上げませんでしたが、残りの12種類については、今回のシオールの説明の中で重複する部分が多く、中編、後編の2回で、駆け足で解説することになるかと思います。
シオールの理解さえ十分に出来れば、あとは多くの言葉を使わなくても、「死者の場所」とその構造について、自然と把握出来て来るかと思いますので、そういう構成にしました(多少は不恰好ですが)。
難しく専門的な言葉が多く登場したかと思いますが、今暫くのご辛抱を願えれば嬉しいです(汗)。
では、続きは中編で。
※参考文献:2012年フルクテンバウム博士セミナー「聖書が教える死後の世界」(ハーベストタイム・ミニストリーズ)
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