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noteリレー③ 島高バレー部と中田久美さんの回想(2)  山本ただお

だからもし、そんな環境で夢を諦めそうになっている子がいたら、力を貸してあげたいと思うようになりました。そんな夢をもち1989年東京での仕事を辞め妻の実家である大島に移住しました。


私は離島の大島の一生懸命やりたい子は環境的に孤独に耐えている(多くの人の中で練習し自分を変え強くなりたい、一生懸命な友と一緒にやりたい、けどそれができない孤独感)のなら、逆にその孤独を耐え、夢を諦めない心が自分をさらに向上させる。だから環境的に恵まれた本土の子よりも島の子は強くなれるはず。という仮説を立てました。そして孤独に耐え主体的にさせるために、指導者の私が子供たちに、夢と希望、夢に近づく時の嬉しさや楽しさを何度も語り、そして自分たちにはその力があると信じさせることが必要だと思いました、

私たちにはどこにも負けない元気がある!     私たちには困難に立ち向かう勇気がある!

私たちには現状を打破する知恵がある!      だから私たちには夢を叶える力がある!

大島に生まれたこと、そしてこの仲間に巡り会えた事に感謝し、大島を愛するがゆえに私たちが必ず夢を叶えてみせる!

1996(平成8)10.22 大島高校バレーボール部

そして、島外に連れて行き、良いチームの指導者と選手と交流させ、良い影響を受けてもらうことも大切にしました。大島の子は絶対に強くなる…、本土に行って大島の子のすごさを証明しよう。と、それも言葉だけでなく映像等を使って夢や目標が目に見え実感できるように励まし続け、そしてその強みに自信をもてるまで技術的な精度をあげるため時間をかけて練習しました。

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それが軌道に乗り、仮説がなんとなく証明できるようになってきた2000年に都立高大会(150チーム参加・現公立高大会)で準優勝、その結果が月刊バレーボールに載りそれを見たTV局から大島高校にオファーが来て、特集番組、中田久美さんとの出会いになりました。


その時の久美さんの私の印象は、気配りとリスペクトの人。たぶん見た目と違います。本当に優しい方で大島の子を愛してくださいました。一流の人ってすごいなぁと今でも思っています。


もちろんその当時の選手は私の思いを十分理解してくれていて、私がいなくても真剣に練習する子たちでした。そして久美さんは20年前の映像の中で「大島の子は人間的に素晴らしい」「大島の子はこれからもずっと見ていきたい」と言って下さいました。選手たちは本当に嬉しかったと思います。ここに、久美さんと大島の子たちが出会えたのは偶然ではなく、やはり大島の子が引き寄せた、本土の子にはない大島の子の魅力を久美さんが感じとってくれたのだと思っています。今回ももしかしたらそんな大島の子の姿を見たい…と思って来てくれるのではないか?と思っています。

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