劇団番町ボーイズ☆第14回本公演 「逃げろ、逃げるな。」 感想

千秋楽を迎えて一日経った。

この舞台から湧き出た感情は決して良いものだけではない。

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9日初日、私は期待に胸を膨らませ渋谷に向かった。

何故なら去年12月ぶりの生の坪倉康晴さんを拝めるからであり、初めて番ボ公演を生で観劇出来るからである。(坪倉さんにハマった経緯についてはまた別の記事で書くことにする)

コロナもあり都内に行く機会も減った中で全8公演の5日間都内に居座ることを選択したのは紛れもなく「推しは推せるときに推せ」という原動力であった。

あらすじも分からないまま座席に座り開演するまでの間はただただ脳内がお花畑なファンであっただろう。

題材が弱者達の物語であり目を覆いたくなるようなイジメ描写が何度もあると知るまでは。

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初日を終え劇場を後にした私は完全なフラッシュバックに苦しめられていた。

あれだけ楽しみにしていた公演が蓋を開けてみればこんな重苦しい題材だなんて思わなかった。全通すると決めたのは間違いだとその時本気で思った。

まず私がした行動と言えば、明日この公演を付き合いで観に来てくれる友達に注意喚起の電話をかけることだった。彼女の過去を知っている訳ではないが心優しく繊細な彼女なら苦しい思いをするかも知れないと思っての行動である。

ホテルに戻ってからも続くフラッシュバックは私が弱者であったころを思い出させ続けた。イジメられた経験,目を反らした経験,親との確執…全てが自分の経験したものに当てはまる。

本公演は弱者である主人公達がそれでも前を向いて進む物語だ。

理不尽なイジメを受けても前に進もうとするのだ。

そんな彼らが眩しく、苦しかった。

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その後の公演は開演前から憂鬱な気持ちだった。

“死”というのは弱者の最後の救いの選択だと考える私に隆弘は「死ぬくらいなら逃げろ!」と毎公演訴えかけてくる。

正直たまったもんじゃない。

辛くなったら死んでもいいと、自分を許して“逃げる”ことが“死”と考えてきた私は何なのか。

私が“救い”と考えて生きてきた2×年間は何だったんだ。

捻くれた大人になってしまった私は糸川さんの伝えるメッセージを完全に拒み続けていた。

目の前が真っ白になる感覚だった。

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日々感想が流れてくるTwitterで純粋に感動している人たちに抱く感情が“嫉妬”だと気付くのにそう時間は掛からなかった。

きっと、感動している人たちも同じ経験をしている。

なのに何故私だけがいつまでもドロドロとした気持ちなのか。

人より捻くれている自覚はあるものの、この気持ちを引きずり続けている自分に嫌気が差す。

つまり私は糸川さんのまっすぐさに、助けを求めてほしいと願う美しい心に、手を差し伸べられる優しさに酷く嫉妬していた。

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今でも過去の私が救われたがっている。

2×年生きているのにあの時経験したことは今でも強烈な記憶としてインプットされているのはそれだけ傷付いてきたということだ。

私は他人に優しくいられる人間ではない。傷付くくらいならと目を逸らし続けられる人間だ。

時間が過ぎるのをただ待つだけの人生だった。

ただ、この感情が何なのか整理がついた頃にはしっかり公演と向き合えたような気がする。

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迎えた千秋楽は何時になく気迫が違った。

隆弘の真っすぐさも、雄太の優しさも全て受け入れられた私は今までより顔をグシャグシャにして泣いた。

隆弘の選択が優しい未来になるようにと心から願った。もう彼らを傷付ける者がいないように…。

糸川さんは紛れもなく苦しんでいる人たちの“光”であった。惜しみない拍手を送りスッキリとした顔で劇場を出た。

公演後、鏡を確認するとしっかりとマスカラが取れていた。

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未だに私は進めていない。

アキラ達のようにはまだなれない。

自覚したくもなかった感情にまだ真っすぐ向き合えてはいない。

今日も戸惑いと悲しみと後悔を抱えている。


きっとまだ、過去の私が救われたがっている。



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