祝いの言葉はほぼ呪い
「おめでとう」と言われているときほど、気をつけなければならない。何がメデタイかなんて、誰が決めたのかも分からない。そんな曖昧な尺度で幸せを測っていると、きっと皺寄せが来ると思う。
祝いと呪いは紙一重だ。心なしか、漢字もちょっと似てる。「結婚おめでとう」は、「離婚したらどうなるかわかってるよね?」みたいなものだ。「受験合格おめでとう」は、「途中で決めた進路を投げ出すなよ?」ということだ。
祝いの言葉の数だけ身動きが取りづらくなっていく。暗に幸せの形が規定されてしまっているのだ。
一を聞いて十を知る、という言葉がある。その域を目指せ、人はというが無理な話である。その言葉のモデルとなった人物は、古代中国におけるトップレベルの秀才であった。普通の人は、十転んでようやく一を知ることのほうが多い。
だから、一発ですべてを決めてしまうような日本社会のスタンスには甚だ疑問である。学校も家庭も会社も、一度入ったら出ないこと前提でデザインされている。少なくとも「人間には不向きなデザイン」だ。
最近読んだ本で、マレーシアに移住した人が書いた本があった。そこでは「ハッピーじゃないから」という理由でカジュアルに転校や転職をするらしい。
現地の人からするとそれが当たり前なのだろうが、日本人からするとかなりギョッとすると思う。私はギョッとした。
ネガティブな意味での我慢とか辛抱とか忍耐みたいなものが丸っきりないんだろうなと思った。結構羨ましい。
というか、そういう風になって初めて「自分の居場所」を見つけようという気持ちになる。主体性とは、本来そういうものだ。
日本の学校だと、クラスでイジメられないための生存戦略みたいな変な知恵ばかりが育つ。それはまさしく、ハッピーではない。
幸せの形も自分で決めるべきだ。それこそが主体性というものだろう。だから下手に祝ってくれるな。そうやって下手に呪ってくれるな。幸せを規定するかのように祝福されたとき、私はハッピーではないのだから。