自由と自分勝手

私の憧れの一つに「自由」というものがあるんですね。お金に困らず、時間に縛られず、一つの場所に止まる必要もなく、好きなことをして過ごす。それが私の理想の状態です。その足がけとしてこのyoutubeチャンネルを始めている節もありますが、まぁまだまだ先の未来だと思います。
そして、こういうことを話すと、必ずと言って良いほどに「それは自分勝手だ。現実を見て働け。」という論調の人が出てくるんですね。そこで今回は【自由と自分勝手】をテーマに書いていこうと思います。

自由主義、個人主義というのは元来アメリカの発想です。反対に日本には儒家思想がベースとなっている孝や忠の思想が馴染み深いです。そして、今回のテーマとなる【自由と自分勝手】の違いも、この別の系譜を辿る思想同士の摩擦からきていると思うのです。

始まりは明治維新でした。米国やヨーロッパ諸国の列強に並ぶべく日本は猛烈なスピードで改革を進めていき、文化単位で改革が行われた。制度はことごとく翻り、江戸時代までのそれとは一線を画し、現代にも通じるような理念や産業が次々に打ち立てられていきました。

そのうちの一つに新たな教育方針として1890年に発布された教育勅語というものがあります。教育勅語というのは、古代中国の思想家、孔子の教えである儒家思想をベースに据えて日本人を啓発するという内容のものでした。

儒家思想といえば、「十五にして学を志す」だとか「友遠方より来たる」のように学問に熱心で、家族や友人を大切にするみたいな印象があるかと思います。また、孔子自身、各国を渡り歩いた上でリスペクトできる人に仕えるという非常にフリーランス的な発想の持ち主だったのです。

しかしながら、明治政府によって発布された教育勅語の内容は、本来の内容とは大きく異なるものでした。儒家思想をベースに、日本的な武士道精神が盛り込まれていたのです。これによって、滅私奉公や年功序列などといった、【忠の精神】を強調する内容となり、孔子が大切にしていた内発的リスペクトである【孝の精神】のニュアンスが薄まりました。

まぁ、当時は天皇中心の体制でしたし、戦争とかもあったので呑気にフリーランス的発想を持たせる余裕があるはずもないので、そういうやり方だったのか、くらいに私は受け止めました。

問題はここからです。教育勅語は1890年に発布されたと言いましたがその効力は戦後まもなくまで続きます。つまり、1945年まで教育の基本原理として残っていた訳です。そこから敗戦し、欧米の思想や文化が思い切り流入してくるようになるのですが、この時、日本人は訳がわからなくなるんです。

【忠の精神】が土壌として出来上がっていたところにいきなり【自由主義】が入ってきたら、教育ってどうなるのでしょうか。

私が思うにハッキリ言って「どっち着かずの中途半端」で終わっている。

なんでそう思うかって、大人と話せばわかります。親でも良いです。
自由と自分勝手の境界が曖昧で、いつも自分の都合のいい方に結論を持っていく傾向がある。結局のところ、年上の言うことを聞かなければ自分勝手といい、年上が考えるのがめんどくさくなったらその点に関しては自由だと言う。

日本人のモラルってこの程度に終始していませんか?

どちらが優秀とかではなくて、単に土壌として成熟した思想が流入してきた思想ミスマッチを起こしているんだけど、空気を読んで、見て見ぬ振りをし続けてきた。それが少子高齢化だとかその他の課題と相まって、世代間の断絶を引き起こしているのだと思うんです。

では、どうすればいいか。私の考えとしては【忠の精神】を捨て、【孝の精神】を取り戻すことが最もスマートかなと思います。

忠の精神と孝の精神の違いは、目線の違いです。忠の精神は、年上側に主体があって、「無条件にリスペクトしろ」という話です。一方で孝の精神は自分に主体があって「尊敬できる人を素直に尊敬する」という姿勢です。時代の流れとしても私は後者の方が人間関係として健康的だと思うんですね。

それに欧米の自由主義とも相性がいいです。孔子はフリーランス的な発想の持ち主だったと言ったように、儒家思想自体はかなり柔軟で本質的な教えの集まりです。従って、【忠の精神】ではなく【孝の精神】に重きを置くことが今後の日本を前進させる契機になるのでは無いかと考えます。

【忠の精神】が前提に話が進むと、若者が新しいことをしようとした時、年上の人は勝手に裏切られた気分になって、必死で自分の制御化に置こうとするんですね。そういう人って見苦しいですし、リスペクトを勝ち取ることはまず無いので、考え方を変えるなら早い方がいいのにって、いつも思っています。

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