失恋とメルカリと私
「失恋」とは、なぜ引きずるものなのか。
それは、自分に「余裕がないから」なのではないかと最近思う。
彼女との楽しかった思い出が、自分を苦しませるいわば「足かせ」となっている。
彼女を彷彿とさせるものは、いまだに僕の日常に転がっているのだ。
彼女からもらったプレゼント、街中で流れている音楽、彼女に激似の芸能人、彼女が好きだった食べ物、街の風景。
思いがけない瞬間に「あの頃」が頭をよぎると、自分でも信じられないくらいのエネルギーを消費する。
そして思い出に浸り、すがってしまう。
その結果、回復できなくなる。
「過去を懐かしむ」というフェーズにまだ立てない僕は、そんな瞬間が訪れるたび、どんどん心がすり減っていくのがよく分かる。
彼女を思い出す機会が多くなればなるほど、彼女のことを考える時間が長くなり、忘れづらくなるのだ。
そんな負の連鎖から抜け出せずにいる。
そもそも僕は、失恋から立ち直るのにだいぶ時間がかかるタイプだ。
新しく好きな人ができればすぐに忘れられるのだろうけど、今のところその気配はない。
だから僕は、自分を守るための「防御策」として、彼女からもらったものを処分することにした。
もちろんモノに罪はないが、見るとどうしても思い出してしまうから。
気に入っているものもたくさんあったが、できれば視界に入れたくない。
見えないところにしまっても、今後、使う機会は訪れないかもしれない。
せっかくいいモノなのに、僕の手元にあることで日の目を浴びない人生を、この子たちに過ごさせていいのだろうか。
謎の使命感にかられる。
そして、自ら排除できるマイナス要素とは、さよならした方がよいと思った。
これが俗に言う、「Win-win」の関係というやつなのだろうか。
真意は分からないが、思い立ったらすぐ行動するのが僕の長所でもあり短所でもある。
ということで、思い出の品々をメルカリ様に出品してみた。
「別に売れなくてもいいや」いや「売れないでほしい」という気持ちがあったことは事実だ。
どこまでも未練がましい自分が嫌になる。
そんな気持ちとは裏腹に、商品はすぐに売れてしまった。
売れて欲しい商品は、いつまで経っても売れないのに。
僕は自分の気持ちを封じ込めるかのように、そして「ありがとう」の気持ちも込めて、いつもより丁寧な梱包をして発送した。
逆に言えば、僕の怨念のようなものが詰まった商品である。
結果として購入者様は「丁寧な梱包に感動しました!」と喜んでくれたが、僕はどこか後ろめたさを感じた。
でも、これでよかったのだ、と思う。
僕は、たまにメルカリを利用しているが、見知らぬ誰かの怨念が詰まってそうな商品は買わないことにしている。
現に自分のような出品者がいるのだから。
メルカリ界では、そんな商品がわんさかあるに違いない、と勝手に思っているのだ。
「お前が言うな」と言われたらそれまでだが、恐ろしくてたまらない。
もう1度言うが、モノに罪はない。
でも、どこかで大切に使ってくれる人がいるなら、それはそれでいいと思う。
僕のもとを離れたモノたちは、新しい人生を歩み始めたのだ。
どうか、お幸せに。
顔も名前も知らない人のもとで、大切にしてもらえることを願っている。