ドジ田ドジ郞の幸運
朝、腕時計を忘れたなぁと思ったら、衣替えしたコートのポケットに去年入れっぱなしだったスペアのそれが入っていた。
夕方、仕事先の大学、ラウンジで休憩していると、ひとりのお友達から久し振りに連絡があった。
そのLINEをスマホで見ていたら、春学期に受講してくれていた学生さんがたまたま2人近くの席に座ってきて、3人でびっくりした。
夜、どうしてもお寿司が食べたくなり、スシローに行こうと思うも、講師業はいつも通り夜が遅いし外は雨だ。間に合わないし、郊外店は例によって駅遠、歩くのが大変だ。
母から、「パパがお寿司を貰ってくるみたいだから食べに来れば」とLINEがあった。
藤子・F・不二雄の短編、『ドジ田ドジ郞の幸運』を思い出す。
「運」を均等にするタイムパトローラー的なロボットが、不運なドジ田ドジ郞を見て「こんなに不運が偏っているとは!オラの職務怠慢だ!これからはバカツキにツかせるぞ!」と様々なラッキーをもたらしてくれる。
壊れた冷蔵庫がひとりでに冷え、瓶ビールは跳ねてグラスに中身を注ぐ。
それは不思議でもなんでもなく、原子の不規則な運動が、偶然、一定の方向に揃っただけのこと、だという。ただ、偶然が重なった結果だ。
私は、あのクソ野郎にクソバカにされナメられきっていたんだなと知ってから、毎日欠かさず、1日たりとも欠かさず怒り狂っており、奴が不幸にならないと許せない、飼ってる猫は死ね精神疾患に罹れ死なない程度に不健康になり根腐れした植物がゆっくり枯れるように死ねもし貴様が女に子を孕ませることがあるなら重度行動障害児であれ若しくは腹の中で死ねとあらゆる呪詛が脳を一定時間支配していた。既に接点の無い人間ゆえ、誰に怒ってんだかもうわからなくなっているのに、怒りだけは残った。
ここ3日、その怒りが不思議と沸いてこない。このまま帰ってこないのだろうか。偶然なんだろう。私に起こった事の全てが作用し、私の神経伝達物質や、神経細胞が、さまざまに運動した結果、怒りの無い精神活動という形で表れたのだろう。
今日再会した学生さんは、ピアノ専攻の女の子、図々しくも練習を見せてほしいとお願いし、2、3畳ほどのレッスン室で演奏を聴かせてもらった。
本当に素晴らしい演奏だ。何の粉飾も要らない。実力。ずっと弾き続けて、上達を目指して、求めて、練習し続けてきた人だと、何も聞かなくてもわかる。
発表会で、聴衆を惹き付ける圧倒的な演奏をしていたのを私は知っている。
練習中の曲を半分ほど弾いて、手を止める、ああやっぱりこの曲難しいです、と。彼女の顔が歪む。実は今、落ち込みが激しく、ピアノのレッスンを休んでいるところなのだという。今まで、上手く弾けないことがあっても、辞めたいとか逃げたいとか思ったことがないのに、初めて、どうしようもなくなっているのだという。
そりゃ、真剣に向き合ったらそうなるよ。そこまでいける人そうそう居ないんだよ。私は彼女程の地点に達したことなんて無いと思うが、それに近い位何かに向き合ったのは、仮面浪人して本気で勉強していた時が最後かもしれない。クソ野郎先生に憧れて、自分がどんなものかわかってすらいない【良い授業】をしようと闇雲に予習をしたり、足掻いていた時は違う。他人に憧れていただけだった。
「何が間違ってるのかわからないけど、何かが間違っているのはわかるのが辛い」と2人で言い合った。彼女は泣きそうになるたび、努めて微笑む。こういうのを大人だと世間様は言うのかね、泣こうが喚こうがおれはどっちでもいい。私は彼女が泣きそうになるのを見て泣いた。
あのクソ野郎に告白した後、「フラれたら泣いてた?」と言われたが、私も本当につまらねぇマウントを取られるものだ。その後「人前で泣くのは中学生だよね」と言っていた。中学生子供おばさん、のレッテルを貼って、分類完了。
練習室にお邪魔して1時間ほど時間を貰ってしまった。課題曲を弾く手を休めて、話したり、私のリクエストを弾いてもらったり。カービィ、ポケモン、東方。課題曲の合間に耳コピでゲームの音楽を弾いたりするんです!と笑う。上手すぎる。
彼女と話しているとエナジーバンパイアになっているなと思う。彼女も私と話したいと思ってくれてはいると思うが、それ以上に、私が、頑張っていて眩しい若い女の子に引き寄せられていってる。
私は何かを頑張りたい願望はあるけど、結局やりたいことが無いから。ずっと打ち込めるものがあるのはすごいし、羨ましいなって思うよ。と彼女に何度か言った。まあ本当、事実なんだけど。さすがにもう言わんとこ、と思った。
私は、最近、反省は特に要らねえよな、と思う。省みるのはいいが、「恥じ入る」「萎縮する」といったニュアンスを含む反省という心の動きは要らねえな。そう思って私は反省も内省もやめた。知らねえよ。死ねよ。
我々は皆ブラウン運動をしている。偶然に従って不規則な動きを繰り返す。全ての出来事が全ての原因だ。