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ニトラム

さてなんとなくこんなものを始めてみました。基本的には見た映画の感想や考察を勝手に述べるだけのnote(ネタバレあり)
今日はこちらの映画「ニトラム」
↓以下感想と考察

非常に印象深い映画だった。
 最後のメッセージから察するにこの映画は銃社会に対する強烈なアンチテーゼであろう。主人公が銃を買うシーンがあるが、ここで彼は免許なしに銃を購入してしまう。こうした銃規制の緩さこそがオーストラリア史上最悪の銃撃事件を生み出したと言うことをこの映画は訴えている。
 しかしこの映画は銃社会への反発に留まらない意味を持つ。
 この映画の主人公はニトラムという蔑称で呼ばれた少年である。彼は社会に馴染むことが出来ない人間であって今の時代の所謂「社不」にあたる者なのだろう。彼の行動原理は基本的には非常に短絡的なもので欲求や本能に対して忠実である。このことは花火での火傷の件でもよくわかる。そんな世間が求めるような「大人」になりきれない彼は孤立してしまう。
 そんな彼がヘレンと出会う。ヘレンは非常にお金持ちな女性であり、彼の欲しいものは何でも買い与えることができる。ヘレンもペットと暮らしてる人間で彼女も彼と同じように欲望に忠実でありながらかつ他者とはあまり関わり持たない人間なのだ。こう言う点でヘレンと「ニトラム」は似ている人間なのである。だからこそヘレンは彼に親近感を覚え、同棲していたのだろう。
 しかし彼と彼女の大きな違いは「常識」というものを持っているかいないかである。彼はこの常識というものを全く持っていなかった。だからこそヘレンを亡くすような事故に繋がったのだ。
 この常識のなさというのが彼の孤立の根本の原因であって彼を受け入れてくれる人は作中においてヘレンと家族を除けば存在しない。最後にポート•アーサー史跡で銃撃事件を起こす直前のシーンでも「孤独な彼」と友達や家族を持つ「普通の人々」とのコントラストが色濃く描出されている。母親との食事の際にも言っていたが彼は自分が何なのかが全く分からずに苦悩している。どんなに普通に合わせようとしても合わせられないのだ。彼自身を含め一体彼が何者なのかは誰もわからない。だからこそ作中で彼が本名で呼ばれることはない。ただ「ニトラム」という蔑称があるだけなのだ。そんな「彼」と「普通」の乖離がこの映画では度々見受けられる。
 だがこの映画の終盤で彼が鏡の自分とキスをするシーンがある。このシーンは彼が「普通」への適応を諦め、自分を理解した上で愛せるようになったことを意味している。自分を愛した結果というのが銃撃事件へに繋がったとも捉えられる。つまりあの事件の根本には彼自身の短絡さに加えて自己愛というのがあったと推察できる。
 そしてこの映画を語る上で絶対に欠かせないのが母親の存在である。一見彼の母親は毒親かのようにも見えるが、実は全くそうではない。彼が事故後目を覚ました時に心から安堵していたことからわかるように彼女は息子のことを本気で愛している。実際彼女は母親にとっての最大の悪夢は息子を失うことだと言っている。そんな母親だからこそ自分の息子を心配して彼を何度も訪ねていたのだ。この映画での最大の彼への理解者はこの母親であるとも言える。というのも彼女は銃撃事件を起こす前夜に彼のところを訪問する。ここでよく考えて欲しいのは家の中にある銃のことである。事件を起こすにあたって「ニトラム」は大量の銃を購入するようになる。そしてその銃はヘレンから譲り受けた家の中に全てある。あれだけの銃の数を隠し切るというのは到底不可能である。そもそも彼は初めから銃を隠す気なんてないだろう。彼は何度も銃を自慢気に掲げている。そもそも銃が危険なものという常識が欠落しているからだ。つまり母親は銃の存在に気がついていたのだ。彼女は自分の息子が次に起こすことを理解する。しかし息子は欲求に対するストッパーがなく行動が短絡的でありかつ暴力的にもなりつつあることを父親を殴打した一件からわかっていた。もう息子を止めることは出来ない。そんなことを知っていたからこそ母親は悲しそうに家から出ていく。また息子が起こした銃撃事件のニュースを聞いても全く驚かないのだ。彼女は冷たいようで自分の家族をよく理解しており、夫の自殺や息子の殺戮行為も最初からわかっていたのだろう。だから表情を崩すことはないのだ。しかしそんな彼女は体裁や世間体というものを気にする人であって所謂この映画の常識を持つ「普通」の人であって、この意味で彼は母親に対しあなたはニトラムと呼ぶ側の人だと言い放ったのだ。
 以上でこの映画の考察とさせていただく。

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