「たまにだからいいんだよね」って本当ですか?
旅行など楽しいことがあった後に、「たまにだからいいんだよね」みたいな言い方をすることがありますよね。贅沢なこととか、特別なことがあったときに、そんな風に言われます。でも、本当にそうでしょうか? 出来ることなら、それを日常にしたいという思いはありませんか?
非日常の場の楽しさ
仲間と長めの旅行に出かけたりすると、まるで旅が日常のように感じられます。旅が楽しければ楽しいほど、終わるときは寂しいもの。誰かが「あ〜あ、もうすぐ終わっちゃうね〜」みたいなこと言い出すと、それに対して、
「でもさ、たまにだからいいんじゃない?」
みたいなことを別の誰かが言います。
僕が小学生の頃、夏休みの旅行帰りの車中で親戚の大人がこう言うのを聞いて「これ、嘘じゃないか」と感じたことがありました。いまでもよく覚えています。
日常を諦めていないかどうか
霜降りステーキは贅沢ですし美味しいですが、僕だったら毎日は厳しいです。「たまに」の程度にもよりますが、毎日じゃなくていいなと思います。
でも、仲間と行った旅行が本当に楽しく、それが終わらないことを本当に望む気持ちがあるのなら、「たまにだからいいんだ」みたいな言い方で、日常に戻ることを「正当な既定路線」みたいに扱う必要はないと思うのです。
それって、日常を諦めることだと思うからです。
日常を変えるための因数分解
日常を変えるのって、引っ越したり転職したり離婚したりというような、大きな変化だとは限りません。
「終わらないで欲しいくらい楽しかったこと」をそのまま継続出来なくても、その要素を日常に取り込むことなら出来るはずです。
「終わらないで欲しいくらい楽しかったこと」が「仲間と行った旅行」ならば、それを因数分解していきます。例えば、
「海辺の散歩がとにかく最高だった」
「毎日、大勢でわいわい食事するのが楽しすぎた」
といった具合に、複数の要素が出てくるはずです。
一要素だけでも日常に取り込むことから
例えば、「毎日、大勢でわいわい食事するのが楽しすぎた」という要素なら、工夫すれば日常に取り込むことが出来るのではないでしょうか。
毎日が難しくても、「週末はみんなで集まって夕食を食べる」と決めることも出来ますよね。カレンダーの予定をすべて塗り替えるようなアプローチではなく、部分的に帯で塗り替えていくようなイメージです。
たとえささやかでも、それは大きな変化につながります。
日常を変えることを諦めると、人は多くのことを同時に諦めてしまいます。劇的な変化って、意外と表面的で中身が変わらないことが多いのです。でも、こうした要素の取り込みは、そこを突破口に様々な変化を導くことが出来ます。