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運命とか立命とか宿命とか③

介護していた、母も祖母も亡くなり、一人暮らしのような生活が始まりました。「一人暮らしのような」というのは、実は一軒家に父と一緒に暮らしていたのですが、父はほとんど家に帰ってこない生活だったので、ほとんど一人暮らしのようなものだったということです。
誰かと住んでいれば、食事を一緒にしたり、同じテレビを見たりすることで、自分の身勝手な欲望が抑制される効果があると思います。私は一人で生活をしていると、つい好きなものを買ってきて食べたり、ダラダラとした生活になってしまいます。それに加えて、仕事中心の生活が続いているので、ごはんを作ったり、家事をすることがだんだん面倒になってきて、ついには心も体もボロボロになっていきます。
休日も働いていないと何となく落ち着かず、毎日休みなく出社していました。仕事をしてもしても終わらず、睡眠時間を何時間削れば私は普通の生活ができるのだとうと考えました。そのうち、食事することも面倒になり、『銀河鉄道999』のように機械の体だったら良いのに~と思うようになりました。知らない間に、私は感情が無くなっていきました。当時の私を知っている同僚は「透明人間のようだった。色が無い人間に見えた」と言われました。食事をしっかり摂っていなかったので、血色が悪かったのもあったかもしれませんが、無感情の人間になっていたので、表情もほとんどなく、あまりにも存在感がなかったのかもしれません。

その頃、会社は印刷業だけでは厳しい時代となってきていたので、WEBの事業にも参入することになりました。そのため、会社の合併で新たな社長を迎え、私も役員になり、新体制での出発をしました。

しかし、その後、長年会社に尽力費やしてくださった多くの社員を退職勧奨し、大きな借金を抱え、倒産寸前になりました。使途不明な会計や諸々・・・色々な問題が顕在化し、当時の社長には会社を離れて頂き、その問題を解決させるまでには数年かかりました。

会社が落ち着いてきたころ、私は子供を授かりました。主人と二人で名前を考えたり育児の必要なものを買いに行ったりして生まれてくる我が子を楽しみに待っていました。
出産当日、元気な産声をあげて生まれてきてくれました。数日経って、帰宅し、家でしばらく様子を見ていると、みるみるうちに授乳をしなくなり、体も冷たくなり、一日中寝てばかり。夜起きてはずっと抱っこして体を温めていました。それでも体温は上がらず、私は不安になり近所の小児科クリニックに行きました。すると、先生は顔を青ざめて、「すぐに救急車を呼びます。この子はほとんど呼吸していません」と言われました。気が動転していた私はよく分からないまま、救急車に乗り、近くの総合病院に行きました。すぐに送管チューブが入れられ、小さな体にいくつも針を刺し、採血や点滴で管がたくさんつながった状態になりました。
入院時のことはあまり記憶がありません。自分がどんな精神状態だったのか、先生が何を話したのか、ほとんど覚えていないのです。
よく分からない状態のまま、息子はICUに入り、ここから長い戦いが始まりました。

毎日搾乳し病院に運んでいました。しかし、子供がいないとだんだん母乳が出なくなってきます。それでも息子の免疫がないうちは、何としても持って行かないと!と必死に搾乳し続けていました。やがて、少しずつミルクも胃管チューブから入れられるようになりました。

息子はウイルス性の脳炎になり、脳幹がウイルスに侵され、呼吸ができなくなっていました。目も開けず、動かず、この子はどうなるのだろう?と毎日考えながら過ごしていました。数か月が経ち、先生から、「このまま呼吸器をつけて生活する人生となると思います。」と言われました。ただただ不安でしかありませんでした。
描いていなかった、想像していなかった現実が次から次とやってきて、目の前には管がいっぱい付いている、動かない我が子が寝ていて、「この子は我が子なのか?」と思うくらい受け入れることの難しい現実でした。

数か月経ち、息子が目を開けるようになりました。生まれて1週間だけ泣き声を聞きました。しかしその後、ICUにいる間は泣くことはなく、ボーっと天井を見ている息子の姿を見ていました。

「運命とか立命とか宿命とか④」に続きます。


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