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運命とか立命とか宿命とか⑭

息子が退院してから、私の父が同じ病院に入院しました。何年も前から肝臓と腎臓が悪く、疲れたり、少し内臓に負担のかかる食事をしていると、嚢胞が大きく何個も膨れ上がり、いつも妊婦のようなお腹をしていました。腎臓病の大きな影響は食事です。栄養管理士から食事療法が必要だと言われ、昔から塩辛いものが大好きな父には大変酷なことではありますが、塩分制限、その他タンパク質やカリウムを摂取制限しなくてはなりません。魚介が大好きで、お酒も嗜み、人と楽しく食事をするのが大好きだったので、好きなものがほとんど食べられなくなり、夜の会合や知人との旅行など自由に行けなくなり、病気になる前と違って受け入れ難い現実を突きつけられたと思います。
私が代表を務めていた印刷会社の会長でもあった父は、自分の生きてきた町が大好きで、町の観光、行政に関わる仕事を請け負い、町の活性化に尽力して参りました。そこで働く方々と共にバブルの良い時代もリーマンショックで厳しくなった時代も一緒に乗り越えてきました。そんな素敵な仲間と一緒にいる時はきっと隠れて好きなものを食べていたかもしれません。
いくら体のことを心配して娘の私が言っても、その時限りの返事ばかりで言うことを聞いてはくれませんでした。父はいつだって自由でいたいし、好きなものに囲まれていたいし、いろんな人に頼りにされたいという人です。
父は20代に親から印刷会社を引き継ぎました。祖父は戦後に大きな印刷機械を購入し、自ら写真撮影の技量もあって当時では珍しいグラビア印刷を始めようとしていました。グラビア印刷とは簡単に言うとフルカラー印刷のことです。自分の町が温泉街として今後繁栄していくと考え、観光パンフレットなどカラー印刷を先駆けてやっていったと聞いています。
その結果、大きな借金を抱え祖父が亡くなった後、父はその借金を返すために必死に働いてきたようです。そこへバブル絶頂の良い時代に入り、売り上げも伸びて借金を返済。さらに現在の社屋を建設し、その借金さえも返済しました。私にとっては、すごい経営者です。平日はほとんど家にいることはなく、授業参観に来たこともなく、運動会も一日ずっとはいなかった記憶があります。しかし当時私は淋しいと感じたことはなく、周りを見ても、そんな父親ばかりだったので、それが当たり前だと思っていました。
年齢を重ね、私が高校生の頃に父は嚢胞腎が見つかり、そこからずっとその病気と共に生きてきました。やがて私が入社して会社を引き継いだ頃から、「引退」の文字をちらつかせるわりに、毎日お客様のところへ行っては仕事を受けてきて、社内でもトップである私と違う意見を言うなど、町の中や社内でも自分の存在価値を保とうとしている様子が見えました。長年積み上げてきた自分の生き様と価値観を新たな道へとシフトチェンジすることは本人にとって難しかったのかもしれません。私は無理に父を会社から引き離そうとはしませんでした。妻を亡くし、家では一人、唯一会社が家族のようなところで、その空間を取り上げることは娘としてできませんでした。それはかえって社員を混乱させることになると分かった上でした。

息子が退院して、しばらくして父が入院し、コロナの影響で面会ができず、たまにLINEで仕事のことをやりとりしていました。そんなある日、病院から連絡が来ました。「昨日から黄疸がひどく、意識が朦朧とした状態でこれ以上の処置は不可能となります」とのこと。急変したようです。私は毎年の入院と同じように数日すればまた退院するだろうと安易に思っていました。しかし思っていた以上に容体は良くならず、嚢胞がいくつも膨らみ、胃や腸を圧迫していて、食事がほとんど得られず、点滴で何とか持ちこたえていた様子でした。病院に駆け付けた時にはもうこの世とあの世の境にいるような表情をしていました。
その夜、父は息を引き取りました。最期一人で淋しい思いをさせてしまったなと思いました。父の友人たちは亡くなる2日前に電話で話して、その時はいつも通り元気そうだったと言っていました。本人も気が付かないうちに天国へ旅立ったかもしれません。

「運命とか立命とか宿命とか⑮」に続きます。


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